荷物をロッカーに閉まってもらい、健診室に瀬川真澄を案内する。
「では、まずは身長、体重を測らせて頂きます」
身長と体重一気に測れるタイプの最新機種。このクリニックは機材だけは最新を揃えているようだ。
「えっ、ちょっと待って。ジャケット脱ぐわ」
「お洋服の分、1キロ引かせて頂くので大丈夫ですよ」
「やったあ」
瀬川さんは両手をグーにして手を上下にさせた。
年齢の割に随分と幼い仕草。でも、年配の男性をしょっちゅう相手にしている女は若ぶった喜び方をする。
私の中で瀬川真澄は年配の男性をターゲットにしたゆすり常習犯な可能性が膨らんで来た。
視力検査、採血、胸部レントゲンに案内し、最後は内診。
「瀬川真澄様、こちらにお座りになってお待ちください」
「はーい」
瀬川真澄はポケットからスマホを取り出し弄り出す。
私は裏から回り、診察室にいる笠井ドクターの元にカルテを届けに行った。
カーテンを引き、診察室に入るとまた画面がパッと切り替わった。
「びっくりした。急に入ってこないでよ」
「また、エロ動画見てましたね。我慢できないなら娘さんの為にも、仕事をお辞めになって依存症の治療に専念された方が良いです」
「いや、今までバレた事ないから。山田さんだっけ、動体視力凄すぎだよ。今すぐヒューストンに行った方が良いって」
「⋯⋯全然、面白くないです。私、普段なら愛想笑いするんですけれど、今そんな気分じゃありません。瀬川真澄が来ました」
私の言葉に笠井ドクターの背筋が伸びる。
「彼女はスマホで会話を録音するつもりです。気をつけてください」
「やっと、『別れさせ屋』として働いてくれるのかホッとしたよ」
「今から私の言うとおりに彼女に話してください」
笠井ドクターはコクコクと頷いた。
「ここであった事を妻に話したら、カンカンになった。今にも君の職場に突撃しそうだ。慰謝料も請求されるだろう。おそらく離婚になり僕も仕事も失う」
「えっと、それだと、やった結婚できるってならないか?」
「なりません。彼女は貴方を米粒ほども好きではありませんから」
医者だからそれなりにモテてきたのだろう。笠井慎太郎は私の言葉に目を瞬かせていたが、私の言う通りにすると言った。
私が診療室から出ると、マイクで笠井ドクターが瀬川真澄の名前を呼ぶ。
瀬川真澄は颯爽と診療室に入っていた。
5分後、診療室から大きな声がした。
「はぁ? 何それ、慰謝料なんて払わないから! もう、バイバイよ!」
瀬川真澄は顔を真っ赤にして出てくる。
周りが一気に彼女に注目する。
「何? 慰謝料って瀬川さんまた不倫してたの?」
「⋯⋯いや、瀬川さんってあの歳でパパ活しているって噂あったよね」
本日、このクリニックには彼女の勤務先の人間が大勢いる。
ヒソヒソされる噂話に、私は彼女が予想通りの女だったと呆れた。
就業時間になった時に、昨日私を採用した事務員の男性が入ってくる。
「山田さん、契約について話しましょう」
個室に案内されるも、私は今日ここを辞める予定だ。
黒い革張りの応接ソファーに座るなり、私は頭を下げた。
「すみません。契約はできません」
「まぁ、そうでしょうね。だと思ってました。この職場、貴方みたいな若い人には最悪でしょ。自分の親くらいのおばさんと働いてもつまんないし、出会いはないし」
私は昨日彼がわざと契約書を忘れた事に気がつく。
本当に考え方は人それぞれだ。私はここのクリニックは問題だらけだが、田辺さんは感じが良いし看護師の金子さんもプロフェッショナルで好きだ。
「いえ、実はドクターが!?」
「ええっ? やっぱ、若い子いれちゃダメだな。山田さん見た時に絶対、笠井ドクター我慢できないだろうなって思ったんだよ。ごめん、本当にここであった事は忘れて。ドクターは病院の王様なんだ」
やはり予想通り、既に笠井ドクターが我慢の効かない性欲モンスターだという事は知れ渡っているようだ。
「はい、心の中に閉まっておきます」
「ありがとう。もちろん、今日働いた分のお金は振り込むからね。本当にすまなかったね。制服はクリーニング出さないで、返してくれて構わないから」
「はい」
私が個室から出ると、田辺さんが待ち構えていた。
「契約しなかったんだね。山田さんと働きたかったから、寂しいな」
「そんな風に言ってもらえて嬉しいです」
クリニックを出た所で、足音が近づいて来て振り向く。
「笠井ドクター、無事別れられたようですね」
「別れられた。それから、山田さん。俺、帰ったらカミングアウトするよ。仕事も辞める。なんか今日二回も動画見てるとこ目撃されて、流石に色々と隠し通すの無理な気がしてきてさ」
「そうでしたか」
「なんか、お前の医者を辞めても自慢のパパでいられるって言うのが妙に響いてさ。山田さん、両親に愛されて育ったんだな。『別れさせ屋』なんてアウトローな事してないで、ちゃんと親孝行するんだぞ」
私の肩を叩くと、風のように笠井ドクターは去って行った。
「⋯⋯なんか、寒い」
心にブリザードが吹き荒れ始め、自分で自分を抱きしめているとフワッと首が温もりに包まれる。
「聡さん?」
「迎えに来た」
こちらのクリニックに潜入する事は伝えていたが、まだ16時。聡さんは仕事を切り上げて、私を待っていたのだろう。
首に巻かれたカシミアのマフラーは温かいが、感覚過敏の私は首に布が接触する感覚が苦手。
それなのに、私は巻かれたマフラーを手放したくなかった。