「どこかで食べてく?」
「家でゆっくりしたいです」
「分かった」
最小限の会話。聡さんは私と笠井ドクターのやり取りを観てたのかもしれない。
私は自分の手を温めるようにマフラーと首の間に手を入れる。
「ごめんマフラー苦手だった?」
私は聡さんの唐突な言葉に驚く。
マフラーが苦手。アセクシャルというだけで面倒な人間と思われそうなのに、彼は私の感覚過敏にも気付いているのかもしれない。
そんな問題を抱えまくった相手と進んで関わろうとする彼が理解できない。
(理由なんてなくて、私がただ好きだから?)
自分の頭に浮かんだ都合の良い考えに、首を振る。
私は自分をよく知っている。彼の元カノのように美しくもない。
面倒な問題も抱えているし、家柄も良くない。
「好きです。あったかいから」
感触の気持ち悪さを感じるのに、私は全然違う言葉を発していた。
聡さんに好かれたいからではない。
私はいつも人に好かれる言葉を紡いでいたが、彼に対しては別。
謎にに惚れている彼の気持ちなんて気にするだけ無駄。いつ客観的に私が価値のない女だと気がついて離れてくかも分からない。縋ったりは絶対したくない。
裕司に縋ってしまった時に、人に縋るのはこんなに苦しいのかと思った。
いつ聡さんが夢から覚めて私から離れても傷つかないように、私は彼を好きにならないように気をつける。
男として好きになることの出来ない私は人として彼を想っていた。
私とは真逆で人から愛されることを当然の環境で育った彼。
本当に激甘坊ちゃんなのに、私にはそれが堪らなく魅力的にうつる。
「お金のためじゃないし」そんな悠長なことを言いながら、人に手を差し伸べられる存在。
「それなら良いんだ。早く家に帰ってピザでもとるか?」
彼は私と笠井ドクターのやり取りを聞いていたのかもしれない。
私は確かに今、気落ちしているし疲れている。
「いえ、私作りますよ。何が良いですか?」
「いや、俺が作るよ。カレーで良い? またイガラシフーズのルー使うけど」
「美味しそう。お願いします⋯⋯」
言葉が続かない。
なんでこんなふうに甘やかされ慣れていない私を甘やかしてくるのだろう。
愛されているようで、慣れてなくてくすぐったくて居心地が悪いのに一緒にいたい。
私はそのまま、聡さんと2人きりの部屋に帰った。
カーテンを開けていると52階からの夜景は絵みたいだ。
そこから見える明かりの一つ一つに人がいるなんて信じられない。
「はい、どーぞ」
気がつけばダイニングテーブルにはカレーが置いてある。
15分くらいしか経ってないから、野菜はこないだと違って硬いだろう。
スプーンで掬った人参を口元に持っていって、私は思わず驚いた。
「口の中でとろける」
私の言葉に聡さんがニヤリと笑う。
「実は圧力鍋買ったんだ。時短にいいだろ」
「予想外でした。聡さん。最近、予想外のことばかり起こるんです」
私は今日あったクリニックでの事を話した。
私の話を聞き終わるなり、聡さんは私をまじまじと見つめる。
普通の女の子ならドキドキするようなシチュエーション。
「なんですか?」
ときめかなくてごめんなさいとばかりに私が言った言葉に、聡さんは嬉しそうに笑った。
「なんか、真希変わったな」
「⋯⋯えっ?」
私も自分の気持ちの変化に気がついている。
原因は眼前にいる聡さん。
浮気男とビッチ女を社会的に浮上できないくらい破滅させたい衝動に駆られていた私。
今は、彼らの私的な事情や気持ちに寄り添っている。
「私のこと好きじゃなくなりました?」
彼が好きになった私はどんな私だろう。
正直、よく分からない。
「何それ⋯⋯俺は変わってく真希を見てますます好きになった。今すぐにでも結婚したい。俺は真希に夢中だよ」
爽やかに言う彼はわざと色っぽさを消している。
私が性的な雰囲気が苦手だからだ。
「夢中か⋯⋯いつまで続くんだろ」
「なんで、そんな事!?」
「明日、依頼を受けていた服部百合子に会ってきます。彼女は私の元上司の奥さんです。仲良し夫婦だったんですけれどね」
彼女の夫、服部倫也は私がいた食品事業部の中で室長をしていた。彼は新人が来ると、わざわざ自宅で歓迎会をする上司。
それは、自慢の妻を披露する為。彼の妻、服部百合子は美人で料理も上手く完璧な女性。フランスに夫が赴任した時も、語学堪能に彼をサポートした才女。
服部室長はしょっちゅう妻自慢をする愛妻家として有名。それもそのはず、服部百合子は室長と同じ東帝大出身で、渉外弁護士のキャリアを捨てて自分より薄給の夫に尽くした妻。
浮気する男には2種類いる。
自尊心を埋めるように浮気する男と、絶好調な自分に調子に乗って浮気する男。
服部室長は後者。そして、社内の浮気相手とのメールをグループメールに流しても笑って済まされるようなポジションを築いていた。