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第49話 それは、30年程前の話ですよね。

松濤にある服部邸に来るのは二回目。

私が新卒で商社で入社すると直ぐに、服部室長が招待してくれた。


 この邸宅は、奥様の百合子さんのご実家の土地に建てたと聞いた。

百合子さんは全国展開する老舗呉服店の娘。

美しく賢く、服部室長と結婚した時は渉外弁護士として稼ぎが彼の2倍あったらしい。

そんな優秀で美しい彼女に仕事を辞めさせ、自分に尽くさせたと言うのが彼の自慢で誇り。

私も商社時代から服部室長の不倫は知っていた。


 何も知らなそうな百合子さんは、私たちを豪勢な手料理でもてなした。

完璧な妻がいるのに、不倫までしている自分に価値を感じている服部社長に呆れ果ててはいた。

でも、当時の私は自分が原裕司と交際し始め、彼の両親にも紹介され家族ができる未来に浮かれる毎日。

不倫が盛んな商社の同僚を見ても、裕司は誠実で良かったと思うだけだった。


 高い壁に囲まれた大きな家のインターフォンを押す。

「『別れさせ屋』の山田真希です」

「⋯⋯山田真希? はい、今開けます」

 スクリーンに映った私を見て、きっと百合子さんも気がついただろう。

声色から彼女の戸惑いを感じた。



扉がゆっくりと開くと、小走りに走ってくる女性が見えた。

イングリッシュガーデンを走ってくる彼女は映画のヒロインのようだ。

それ程に服部百合子は男が自慢したくなるトロフィーワイフだった。


「真希さん。うちに一回いらしてくれたわよね。原君との婚約がダメになったって聞いてたけれど、『別れさせ屋』って⋯⋯」

「百合子さん、それはこちらのセリフです。弁護士である貴方なら、ご自分で解決できる事案では?」


 私の言葉に百合子さんは肩をすくめる。

「もう、仕事を辞めて15年以上よ。弁護士なんて名乗ったら、笑われるわ」


 想像はついていたが、これが百合子さんの感覚だ。

 彼女は未だ東京弁護士会に登録しているから、弁護士と名乗ってなんら問題はない。しかしながら、彼女は極度の完璧主義。

 フルタイムで仕事をしていなければ、仕事をしているとは言わないタイプ。専業主婦になっても、専業主婦を突き詰めているような節があると服部室長が自慢げに語っていた。


 彼女は専業主婦になるなり、フードコーディネーター、テーブルコーディネーターの資格を取り、夫の来客に完璧に対応。

そして、服部室長のフランス駐在の際には、仏検1級を取り、師範クラスの着付けだけでなく、お茶や日本舞踊まで学んでフランスで披露したらしい。

「こんな良い女が尽くしている俺」と言うのが、服部室長の持つ自信の源。もちろん、スマホの画面は夫婦のツーショット。

そんな彼が不倫し放題なのは、女のマウント精神を利用したものだ。

「才色兼備の百合子さんに勝った」「愛妻家で有名な彼が私にだけは男」みたいな愚かな若い子たちの気持ちを上手く使って、彼は不倫してきた。


「まぁ、上がって頂戴。ちょうどお腹も空く時間だし、一緒にご夕食でもいかがかしら?」

 上品に微笑む百合子さんは、以前会った時の溢れんばかりの幸せオーラがない。

「百合子さん。私、お客さんではなく、『別れさせ屋』として来ているんですよ。仕事の話をしましょう」

「⋯⋯別れさせて欲しい人がいるの。倫也さんと」

夫を「さん」付けで呼ぶ古風な妻。それも服部室長の自慢だった。


「なぜ、『別れさせ屋』なんてアウトローな場所に駆け込んだんですか?」

「弁護士事務所には駆け込めないわ。法曹界って狭いの。司法同期の耳に夫に不倫された話なんか伝わってしまったら笑われるわ」

「笑われるのは、服部室長です。百合子さんは何の恥ずかしいこともしていません」


 夕日に照らされた百合子さんの顔はいつになく哀愁を帯びていた。

「真希さんって、以前も思ったけれど素敵よね。それは、こっちのセリフ! 原君の浮気は貴方のせいではないわよ」

「ご心配なさらないでください。私も自分のせいで浮気されたとは微塵も思ってません」 

 私の言葉に百合子さんは目を丸くする。真面目で真っ直ぐな人ほど自責思考で自分を追い詰めがちだ。


「そうね。真希さんは若いし子供も産めるもの。私は、本当にダメ。浮気されたのも私のせいだって分かっていても、今の生活を壊したくないの」

 百合子さんの目は涙の膜が張っていた。

彼女の夫は自慢の妻がこれ程思い詰めているなど気づいてもいないだろう。


「詳しくは中でお聞きしますね」

 私は冷静を装い返す。

彼女が相談して来た不倫相手など氷山の一角。

服部室長は相手を選びながら上手に不倫する不倫のプロ。


 派遣や、受付嬢、事務職でもコネではない働き詰めでメンタルがやられている子。

彼は相手を選んでは、愛妻家だと公表しつつ手を出した。正直、ルックス的に服部室長はそこまで優れてはいない。

 しかし、口のうまさと奥さんの完璧さが彼の価値を特段にあげていた。


 以前、9人という大人数で訪れた服部家のリビング。

センスの良い生花が飾ってあり、本当に理想の妻が管理する部屋といった感じだ。


「お茶、お出しするわね」

「結構です。百合子さん、私に気を遣わないでください。今日、私は貴方の依頼を受けに来ました」

 断ったにも関わらず、ハイビスカスの浮かんだ赤いお茶とホテルのアフタヌーンティーのような3段重ねの皿が出てきた。


「⋯⋯百合子さん」

「時間的に甘いものより食事になるものが良かったかしら? もうすぐキッシュも焼けるから待っててくれ?」

「百合子さん、私は夫のお客様じゃありません。今日は貴方と夫を別れさせる為に来ています」

 私の言葉に百合子さんがハッとしたような顔をする。


「ごめんなさい。依頼しといて、まだ認められないのよ。だって、彼は本当に真面目な人だったの。塾で初めて会った時もね、休み時間も勉強していたのよ」

 私は百合子さんと服部室長の馴れ初めは何度も聞いていた。

彼と彼女はいわゆる東帝大に受かる為の指定校制の塾で出会った。

百合子さんは高偏差値の女子高、服部室長は高偏差値の男子校出身。

2人ともめでたく東帝大に受かり、交際開始し就職してまもなく結婚している。


「百合子さん、それは、30年以上前の話ですよね」

「分かってるわ。ただ信じられないのよ。あんなに真面目な倫也さんが⋯⋯」

 百合子さんは顔を両手で覆い隠し泣き出した。





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