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第52話 退職と同時に離婚届を叩きつけてみては?

「離婚一択でしょ。来須真実となんて、とっくに終わってたわね。澤井桐花、百瀬スミレ、田部彩綾⋯⋯」

 私は百合子さんが一瞬見ただけで、メールのやり取りをしていた女性の名前を全て記憶していることに驚いた。


「百合子さん⋯⋯」

「私ね。一度見たものは脳が記憶しちゃうの。倫也さんが関係した女の名前は悔しいけれど、やりとり含めて忘れられないと思う」

 私は自分と同じように忘却ができずに苦しんでいる人間がいることに気が付いた。


「忘れられないって辛いですよね」

「でも、この屈辱の記憶は自分を奮い立たせる糧にできるわ」


「夫の退職と同時に離婚届を叩きつけるとかライトな復讐としてお薦めです」

 百合子さんは服部室長の会社で夫の不貞行為を騒いだりはしない。彼女は非常にプライドの高い女性だ。


 「ご冗談を。今日、帰宅したら、速攻離婚するに決まってるでしょ」

 百合子さんは上品に笑いながら、引き出しから取り出した緑の離婚届を見せてくる。既に妻の欄には彼女の名前が記入してあった。


「離婚するって決めてたんですか?」

 百合子さんは私の質問に首を振った。


「これは、来須真実と別れないなら離婚するって脅す為に貰っておいた小道具。本当に使うことになるとはね」

「百合子さん、確かに百合子さんが離れる事が服部室長にとって一番の復讐になると思います」


 事あることに、妻自慢をしてきた男。服部室長にとって、百合子さんは特別。彼が百合子さんを語る時は目が輝いていた。

軽い火遊びで本当に大切な人を失うとは思っていなかっただろう。


「慰謝料しっかりとってくださいね」

「いらないわ。慰謝料も、財産分与もなし。クズと関わるだけ時間の無駄でしょ。タイムイズマネー。もう時間を無駄にしたくないの。こう見えても、私の時間は高いのよ。速攻、あの男をこの家から追い出してやる。この家はうちの親のプレゼントで私名義だしね」


 先程まで自分の生活を変えたくないと言っていた百合子さんがキラキラしている。覚悟を決めた女は強い。

 それにしても、土地は妻の実家から貰ったが、家は自分が建てたと服部室長は言っていた。結構、見栄っ張りな男だったようだ。

 よく考えればいくら高収入の商社マンでも、こんな芸能人が住みそうな高価な邸宅は建てられない。


 私はパソコンを閉まって、帰り支度を始める。


「待って、キッシュ焼けたからお土産に持って帰らない? それと、成功報酬は今日中には振り込むから」

 百合子さんが足早にキッチンに向かい、オーブンを開ける。美味しそうな匂いが鼻をくすぐる。


「いえ、『別れさせ屋』としての仕事はしていないので成功報酬はいただけません」

「でも、私の為に犯罪まがいのことまでさせてしまったわ。それとも、真希さんにとってはあの程度のことはピースオブケイクなのかしら?」

 犯罪まがいとはハッキングの事だろうか。私は不倫や浮気は犯罪並みに断罪する割に、ハッキングには罪の意識がない。


「では、キッシュを相談料として頂きます。私がハッキングした事と『別れさせ屋』をしていることは秘密でお願いします」

「当然よ。守秘義務違反はしないわ」


 ケーキ屋さんにあるような組み立ての箱に、キッシュが入れられる。


 彼女は私が以前夫の部下としてお邪魔した時も、お店のようにパッキングした手作りマカロンをお土産に持たせてくれた。

 完璧な妻を失い、家を失う、服部倫也。彼は私には親切だったが、大切な人間を傷つけた。


 玄関で靴を履いていたら、後ろから百合子さんに声をかけられる。


「真希さん、私、弁護士として復帰するつもりよ。独立して自分の力を試そうと思う。その時になったら私と一緒に働かない? ホームページの運営とか事務全般をお願いしたいの。貴方が仕事ができる人とは聞いているし、個人的に私は真希さんが好きなの」

 百合子さんは既に次のプランを考えていた。そして、「好き」という言葉はどうしてこんなに甘いのだろう。人として私を欲してくれる人の側にいたい。


「すみません。それは相談してみないと」

 非常にありがたい申し出だが、川上陽菜の件を解決した上で聡さんに相談してからだ。

 私の目をじっと百合子さんは覗き込んで、にっこりと笑った。


「今、相談して未来を決めたいような大切な人がいるのね。お互い幸せになりましょうね」

「⋯⋯はい」

 私は自分の中で聡さんの存在が大きくなっている事に怖さを感じていた。


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