杉崎琴子が事務所でのカウンセリングを終えて帰ろうとすると、聡さんが両手で私の肩を押さえ向き合ってきた。
「依頼主の心配ですか? もう、松前智則からの依頼は完了してますよね」
松前智則は依頼通り幼子を抱える妻と別れ、妊娠中の不倫相手と一緒にいる。
それだけでも、吐きそうなくらい気持ち悪い案件。
松前智則が『別れさせ屋』を使ってまで元妻の琴子さんを捨てようとしたのは酷い話。
もっとも、今、琴子さん側の話しか聞いていないので一方的な批判はできない。
「真希がやりたいなら、止めない。別に成功報酬とかいらないし。ただ、もう辞めると決めたんだから『別れさせ屋』とは関わらないようにしても良いんじゃないか?」
聡さんの言う通りだ。
彼の言うことは正しい。
聡さんは弁護士だから、依頼人の利益を優先する。
でも、私は松前智則が許せない。
「『別れさせ屋』、やっぱりハルト君は私と旦那を別れさせたかっただけなんですね。なんとなく最初から分かってました。あんなカッコ良くて若い子が近付いてくるなんて不自然だって⋯⋯」
杉崎琴子は私たちの小声の会話に耳を澄ませていたみたいだ。
彼女が酷く傷ついているのが分かった。
夫に裏切られ、その後に救いを求めた男は自分を嵌めようとしていた。
『別れさせ屋』とは実に業が深い仕事。
「琴子さん。うちのハルトは仕事をしただけです」
聡さんが杉崎琴子の雨くんへの未練を感じ取ったような言葉を掛ける。
私の判断とは全く違う。
私の察した感じでは杉崎琴子は雨くんへの未練なんて全くない。
ただ、元旦那と不倫相手にしてやられたのが納得いかず、雨くんの話を持ち出しているだけ。
「分かってます。でも、私もハルト君が心配なんです。彼みたいな若くて見た目も良くて賢い子が、こんな叔母さん引っ掛けなきゃいけない仕事をしてるなんて」
「ハルトの事は気にしないでください。彼はあんな風に軽い感じでも懸命に自分の人生を生きています」
腹立たしくて堪らない。
はっきり言って余計なお世話だ。
この女は結局は松前智則というクズ夫を選ぶ選択も、雨くんのロミオトラップに引っかかる選択も自分でしている。
自分はまともな女と思っているのかもしれないが、十分クズ。
パートナーが不倫したから自分も不倫するという考えが浮かんだ時に、自分の子供に気持ちがいかない人に子供を持って欲しくない。
そんな考えを持つ私も余計なお世話だとは分かっている。
自分でなんの選択もできず赤ちゃんポストに捨てられた彼の思いなど理解できない。
雨くんがどんな思いで杉崎琴子にロミオトラップに掛けたのか、子供がいるのに若い男に引っかかった彼女を軽蔑してたのは間違いない。
でも、私は一番ムカつくのが松前智則だから、とりあえず五十歩百歩のクズの杉崎琴子の味方をする。
私はパソコンを出し、マリアさんが作った松前智則の依頼書を拝見する。
松前智則、予備校講師48歳、不倫相手21歳の予備校生の坂本愛花。
愛花が妊娠した為、妻の琴子46歳との離婚を希望。愛花は妊娠3ヶ月。
スーパーのパートをしている琴子に偶然を装い桐島雨が接触。
松前智則と琴子の離婚が成立。
「今年の5月に離婚は成立しているんですね。不倫相手の愛花さんは現在妊娠8ヶ月ですか」
「そうなんです。許せません。絶対、不倫女に智則との子なんか産ませたくないんです」
「中絶できる時期はとっくに過ぎてますよ」
私の言葉に杉崎琴子は頭を抱えて、大声を出す!
「あー! もう、兎に角、歩道橋からでも突き落として坂本愛花のお腹の中の子殺してくれませんか? 彼女が出産したら智則が結婚しちゃう」
私は杉崎琴子の身勝手さに絶句した。
そして、やはり『別れさせ屋』に関わる登場人物は倫理観が欠如している。
「お腹の子に罪はないですよね。杉崎さん、自分も母親でしょ。自分の子が殺されたらどう思います?」
「だって、あっちはまだ生まれてないじゃない。それに不妊治療で授かった私の子と、肉欲に溺れて出来ちゃった坂本愛花の子の価値は違うでしょ」
杉崎琴子側について、松前智則を社会的に抹殺しようかと思っていた気持ちが揺らぐ。
こんな頭のおかしい考え方をしている女から逃げたいと思うのは自然。
「松前智則は坂本愛花が出産しない限りは結婚しないのは確実ですか? 杉崎さんの望みは松前智則を坂本愛花と結婚させないこと?」
「そうよ。当然でしょ。私、智子を産む前に2度の流産と死産も経験してるんです。だから、智則は子供が確実に産まれるまでは坂本愛花とは結婚しないと思います」
彼女は自分が最初に雨くんに会わせろと突撃してきたのを忘れている。
会話の内容にも矛盾を感じるし、彼女が娘の智子ちゃんの事を一番に考えていないことに苛立つ。
「松前智則さんが坂本愛花さんを愛しているならば、子供が生まれようとそうでなかろうと結婚すると思います」
「それはありません。智則は浮気性なんです。結婚前は本当に酷くて悩まされました。今は若い彼女が妊娠していて彼女に気持ちがあります。でも、子供が上手くいかなければ、気持ちは離れて行くんです。私の子が流れる度に、私は運命の相手じゃなかったのかもしれないって彼の心は離れて行きました。だから何がなんでも子供を産みたくて、やっと産んだのにこのザマです」
肩をすくめてうんざりしたように話す杉崎琴子。
私も彼女にはうんざりだ。妊娠中の坂本愛花も予備校生なら不倫せず勉強すべき。
私の頭の中は智子ちゃんと坂本愛花のお腹の子をどう守るかを考え始めていた。
私が思い悩んでいると、隣で無言でいた聡さんが私の手を叩いてくる。
「杉崎さん。結婚生活は15年ですよね。貴方はパートで家計を支え続けた。これから娘さんを育てていくのにはお金が必要です。養育費を請求するお手伝いをします」
聡さんさんが私の心を察したかのように助け舟を出す。
「そんな事できるんですか?」
「当然です。養育費は智子ちゃんが貰う当然の権利です。少なくても月3万円は成人するまで養育費が支払われるようにします」
聡さんがアウトローな『別れさせ屋』モードから弁護士モードに変わっている。
感情を排した建設的な意見を聞いて、杉崎琴子の眼差しも真剣になってきた。