『やめて!』
私がドイツ男を押し返して、バスタブのある部屋を出たところでスマホに着信がある。
「真希ちゃん、本当に遊びに来てくれたの?」
「渡田さん。声、聞きたかったです」
声が泣き声になってしまい彼女も驚いただろう。
私は商社時代も彼女を母のようにしたい依存していたが、彼女は私を懐いてくる可愛い後輩のように思っていただけ。
社交辞令で「遊びに来て」といった言葉を鵜呑みにしてきたと迷惑がられても当然。
「真希ちゃん、泣いてる? 何かあったの? 今、トロントにいるのよね」
「はい」
「そこ、どこ? 迎えに行く」
私はユースホステルの住所を告げると極寒の空の下、入り口で渡田さんを待った。
視界が歪む程の猛吹雪の中駆け寄ってくる懐かしい人が見えた。
「真希ちゃん。どうした?」
「⋯⋯ごめんなさい。もう、苦しくて消えちゃいたい」
自分から出てきた言葉に自分でも驚く。
私は今まで辛いことがあっても、消えたいと思ったことはなかった。
感情的にならず、ドライに対処し潜り抜けてきたはずだ。
何が辛かったのか分からない。
私の全てを受け入れてくれた聡さん。
彼の母親から拒絶された事が辛かった。
ずっと母親のように慕っていた祐司の母親から拒絶された事もキツイ。
何を考えているか分からない腹違いの弟に騙し討ちされた事も最悪。
「聡さんといるのが良い」と雨くんから言われても、不可能だと分かってしまい突っ走れない自分が辛い。
聡さんが、私の苦しみも知らずに馬鹿の一つ覚えみたいに私を追っかけてくる事が憎らしい。
何もかもが苦しいくて、訳も分からず片道20万円以上の航空券を買ってここまできた自分のアホさが嫌。
「真希ちゃん。うちにおいで。温い部屋でお話しよ」
渡田さんと私は血のつながりもない。私が短いOL生活で関わっただけの人。
「渡田さん、今、こっちで部屋借りてるんですか?」
「そりゃそうよ。この歳で、流石にホームステイするわけにもいかないでしょ。受け入れ家族はこんなおばさん来たらガッカリするわ」
「そうですか? きっと嬉しいと思います」
「また、真希ちゃんは本当に上手なんだから」
確かに私の発言はいつも人に媚びているが、今の言葉は心からのもの。彼女のように人のピンチに駆けつけてくれるような温かい人が家族だったらどんなに嬉しいだろう。
私は遠くカナダの地に衝動的に温もりを求めてきた自分に笑ってしまう。
いつも求めるのは自分の母親世代の人間。
上手くいっているうちは良いが、突き放されると母親に捨てられた時がフラッシュバック。
自分でも傷付くために擬似お母さんに近寄って行っているようで情けない。
コンドミアムの一室はとても暖かかった。ベッドとテレビに加え小さいテーブルとキッチンしかない部屋。渡田さんが「遊びに来てくれ」と言ったのは当然社交辞令だと分かる。
「はい、どうぞ。ホットミルク」
出されたミルクを飲むと精神安定剤を飲んだように心が落ち着くのが分かった。
「すみません、突然、来てしまって」
「いいのよ。嬉しい。真希ちゃんと会いたかったから。何かあった? いつもニコニコの真希ちゃんが泣くなんて驚いたよ」
渡田さんが私の背を撫でてくる。
確かに私は彼女の前で泣いたことがない。
というのも、会社において割と泣き出す女の社員はいた。
それを見て先輩社員は最近の子はすぐ泣くと嘆いていた。
「原裕司と北海道で再開したんです。それで、私の正体を話したら、彼の母親に詐欺師だって叩かれて」
口を開くと出てきた言葉。私が間違いなく一番ショックを受けた出来事。
「正体って? 真希ちゃんが実は月からきた兎とか?」
「ふふっ、違います」
渡田さんの面白くもないジョークを聞くと温かい気持ちになる。
笑い合いながら生活したいのではない。温かさを感じながら生きていきたい。
「私、アセクシャルなんです。男も女も好きにならない。だから、ゲイがカモフラージュ婚しようと騙してたようなもんだって裕司の母親から怒られちゃって」
「男も女も好きにならない⋯⋯キスも、セックスも気持ち悪い。私もそれだわ。アセクシャルっていうのね」
渡田さんが同情するでもなく淡々と発した言葉に私は目を丸くした。
自分だけが取り残されて苦しいと思っていた私にとってそれは救いの言葉だった。