ロイヤルアレキサンダーシアターで行われる本日のオペラ。
『ドン・ジョバンニ』。
稀代のプレイボーイが地獄に堕ちるストーリー。
私がこの世界で一番憎いのは川上陽菜。
渡田さんからは「男」への強い憎しみを感じる。
シアターの赤いベロアの椅子に座ると、開演まではまだ時間がありそうだった。
「それにしても、渡田さんって英語話せましたよね。どうして留学をしようと思ったんですか?」
私は会社にかかってきた電話を流暢な英語で受ける彼女を見た事があった。
「今は平日は語学学校でフランス語を学んでるの、来月にはケベック州に移動するつもりよ」
カナダの公用語は英語とフランス語。ケベック州はフランス語オンリーと言っても良い。
彼女が日本人の多いバンクーバではなく、東海岸を選んだ理由が分かった。
「モントリオールとかは行かないんですか?」
「ワンデイトリップで行って来たわ。最初はモントリオールに移動しようかと思ってたから下見にね。オリンピックを誘致して以来廃れてるらしく、治安はあまり良くなかったかな」
「なんで、オリンピックなんてやるんでしょうね。私、アスリートを見て感動した事がありません。共感力がないんでしょうか」
人に感動を与えたいと言うアスリート達。
自分の好きな事を極められる環境が与えられているなんて羨ましいという目でしか見られない私。
沢山の人から応援されてサポートされて、「どうだ! 感動しただろ!」とばかりに金メダルをカプリ。
彼らから勇気なんて貰った事などない。きっと彼らの頑張りを見て涙するのは恵まれた人なのだろう。
「私も感動した事ないよ。多分、スポーツやってた人は感動するんじゃないの? 自分が極められなかった道を極めた人としてさ」
「なるほど⋯⋯」
何だかホッとした。ヤングケアラーだった私はスポーツなんて体育の授業でしかやった事がなかった。
もし、うちが恵まれた家庭で母が私にテニスラケットを誕生日とかにプレゼントしてくれてたりしたら、アスリートのパフォーマンスに感動できるスポーツ少女になってたかもしれない。
お金も時間も掛かったけれど、本当にここに来て良かった。
アセクシャルをカミングアウトしたせいか、渡田さんの前で私は自然でいられる。
媚びて感動しいの良い子な後輩山田真希ではなく、世の中を斜に構えて見ている嫌な自分を出せる。
こんな風で自然体でいられるのは、聡さんと一緒にいた時以来だ。
自然体な私を受け入れてくれる彼を特別視、別れを苦しく思ったけれど今なら彼を忘れられそうだ。
「赤毛のアンの島とかには行ったりしないですか? 飛行機だとすぐですよね」
「プリンスエドワードアイランドね。行くよ。春には赤土が見れて絶景なんだってさ。クルーズで行こうと思って」
「船旅ですか? 良いですね。船の中でアクティビティーとかあったりするんですよね」
「そうそう、お1人様参加も結構多くてさ。船で初対面の人とダンスしたり、楽しそうだなって思って。毎晩、ショーも見られるしね」
アラフィフ独身女の渡田さんは非常にパワフルだ。しっかり、30年仕事で貯めたお金で、計画的に人生を謳歌している。
「沢山の出会いがありそうですね」
「こうやって、もう会えないと思ってた真希ちゃんも会いに来てくれたし、別れも出会いも繰り返すんだよ。でも、それが人生。1人でも楽しいよ」
「本当に来て良かったです。始まりそうですね」
演目が始まりそうで私たちはお喋りをやめた。
自分の中の呪縛やこだわりが解けていく、「1人でも楽しいよ」は彼女が私の為にかけてくれた言葉。
公演が終わると同時に拍手が鳴り止まない。
「感動しました! プレイボーイが地獄に落ちて良かった!」
「でしょ。真希ちゃんなら気に入ると思ったわ」
私もそれなりに男への恨みを持っていたようだ。
パンフレットを見直そうとカバンから取り出した時に、ボールペンが落ちたのが分かった。
「ハンコ付きボールペン? 可愛い」
「ありがとうございます」
雨くんの部屋から持ってきた私用のボールペン。
渡田さんが拾ってくれて、受け取る。
暗闇で光るボールペンに私は違和感を覚えた。
場内の明かりがつくと、私はボールペンをまじまじと観察した。
(これ、小型カメラ入ってない? もしかしたら、GPSも!)
ボールペンにしては少し重く、手を陰にすると小さい丸い穴が光っているように見えた。