ロイヤルアレキサンダーシアターから出た時には、外は暗くなっていた。
「真希ちゃん、本当に帰っちゃうの? もう、1泊くらいして行かない?」
「いえ、この2日は私の人生にとって忘れられない2日でした。また、会ってください。今度、会う時は元気な顔を見せられるように頑張ります」
平日は語学学校に行くと言っていた渡田さん。
これ以上、お世話になるのは迷惑だ。渡田さんがそっと私を抱きしめて頭を撫でてくる。
「別に今度会う時、元気な顔見せる必要なんてないのよ。泣いてたって良いの! 元気が良いとか、笑ってるのが良いとか、囚われないでありのままで良いのよ」
渡田さんの言葉に胸が詰まって、私は何も言えず頭を下げた。
手を振って、彼女と別れ雪道を歩く。
ありのままの私で側にいるだけで良いといってくれた人がいたのを思い出していた。
私の仕事は何もしないで自分の側にいる事だと言って、肩の荷を下ろしてくれた人。
(なんで、今、聡さんの事を思い出すんだろう)
「タクシー拾って空港に向かうか」
私が手を挙げてタクシーを止めた時だった。反対車線のタクシーから降りてきた男が私に向かってくる。
暗くてもそのスラっと高い背と体格には見覚えがあった。
「真希!」
聡さんが私を見つけて走ってくる。
私は思わず逃げようとするも、雪に足を取られて転びそうになった。
「危ないな。それに薄着過ぎだろ。耳がもげるくらいに寒いぞ」
私は気がつけば聡さんに支えられていた。
「聡さんも人のこと言えないくらい薄着じゃないですか。それより、なんで?」
「なんでって、真希が逃げるから捕まえに来たんだよ」
「逃げてるって分かるなら、追ってこないでください」
行き交う人が私たちを見ている。
トロントは割とアジア系の人が多い気がする。大きな中華街があるから中華系だろうか。
日本人は少ないから、目立つのかもしれない。聞き慣れない言語は耳障りだと聞く。
『今から英語で話します。聡さんも英語で話してください』
私は英語で話すことにして、聡さんに英語で話し掛ける。
「なんで、日本人同士で英語で話すんだよ。相変わらず、真希は面白いな」
「日本語だと周りの人に耳障りかもって思って⋯⋯」
「誰も気にしてないって。真希、そんなに、みんな他の人のことなんて気にしてないよ」
さらっと言われた聡さんの言葉にホッとする。どうして、私はこんな人の目ばかりして息を詰まらせているのだろう。
彼の母親に消えてくれと言われたら、命令に従い自腹を叩いて逃げているのも変。
結局、自分を認めてくれない世界から逃げただけ。
今、ここには私を拒絶する彼の母親もいないし、知らない人ばかり。
「自分の側にいるのが私の仕事」と言ってくれた聡さんだけ。
私は聡さんに思いっきり抱きつく、彼が薄着のせいか温もりが伝わってきた。
「あったかい。この、ストーカーの人、あったかいわ」
「真希にプロポーズしたのに逃げたられた五十嵐聡です! ストーカーじゃないから」
聡さんが私を抱きしめ返してきた。本当に彼は何も分かっていない。私だって彼から逃げたくなかった。
「とにかく、ホテル予約したから行こう。ここにいたら、凍え死ぬわ。冷凍庫より寒いだろ」
当たり前のように私の手を引き、タクシーに乗り込む聡さん。
タクシーの中、ホテルに向かう車内で私は尋問タイムを始めることにした。
「昨日はどこにいたのかとか聞かないんですか?」
「⋯⋯渡田さんって方の家だよな」
私はカバンの中からハンコ付きボールペンを出す。
「これって、カメラとGPS以外に盗聴器も入ってたってことですか?」
「ボールペンの芯とハンコも入ってるぞ。こんなの作るって、雨は天才なんじゃないのか?」
「話をすり替えないでください。盗撮も盗聴も犯罪ですよ」
「雨が自分は犯罪者二世だから、なんでもありだって言ってた」
私は善悪の区別のついていない雨くんを止めない聡さんに呆れてしまった。
それより、雨くんの凄いところに私は気がついた。彼から受け取ったものなら、私はこのボールペンを疑えてた。
しかし私はこのボールペンを彼の部屋から勝手に持ってきている。そのせいで、カメラに気がつくのに遅れた。
川上陽菜を人心掌握の天才だと思っていたが、雨くんも人の心理を巧みに利用している。
彼だから、川上陽菜の企みの上をいき追い込めたのだ。私にとって得体の知れない恐怖を与え続けた川上陽菜。
その上をいく存在である桐島雨が何を考えているか分からないのは私にとって表現し難いくらいの不安があった。