「チッ、煩くするから起きちゃったじゃないか。もうちょっと寝かせてあげたかったのに」
婚約破棄を告げた途端、冷たくなった城ヶ崎慎一郎も思い人には優しい。
「こんな朝早くに来るなんて、もしかして慎一郎の浮気相手か?」
軽く弾んだように揶揄う声が寝室の扉の向こうから聞こえる。
私の記憶が確かならこの声は服部倫也。
私が商社時代にお世話になった女好きだけど世渡り上手な上司。
そして、慎一郎さんの姉である百合子さんの元夫だ。
「倫也さん! 俺が浮気なんてしなんて出来ないくらいアンタにベタ惚れだって分かってるだろ? 今、山田真希が来てるんだよ」
「山田真希! 待って、本当に俺が知る山田真希か確かめたい」
扉が閉まる音と共にトタトタと足音が近付いてくる。
「⋯⋯いつからですか? お姉さんの旦那さんですよ」
震える声で城ヶ崎慎一郎を非難する。
「元旦那ね。俺が高校2年の時からだから、倫也さんとはもう20年くらいかな」
淡々と語る城ヶ崎慎一郎からは罪悪感を感じない。
むしろ、自分たちの愛の歴史を堂々と語っているようにさえ見える。
どうして、私は彼が両親にはゲイだと告げても姉の百合子さんにカミングアウトしない理由を疑わなかったのだろう。
彼が「姉を傷つけたくない。驚かせたくない」と言ったのは姉の為ではなく自分の為だった。
聡さんやマリアさんが純粋で優しい人間だから、勝手に育ちの良い人間は騙されても騙す側にはならないと勘違いしていた。
一番近くにいる身内を平気で騙す人間が今、私の目の前にいる。
「あっ、本当に山田真希だ。前髪少し切った? 記憶の山田真希より若返ってる」
バスローブ姿で私に近付いてくるのは服部倫也だ。
スーツでビシッと決めている時はザ・商社マンと言った感じで仕事ができカッコよく見えた。
でも、起きがけのバスローブ姿の彼はくだびれたアラフィフのおじさん。
彼は男も女もどっちもいける人なのだろう。
「前髪切った? 可愛い」「ネイル変えた?」「その香水の匂い好き」彼は昔から一歩間違えばセクハラになる言葉で女性を褒めた。
でも、言い方が良いのか、キャラで許されるのか、会社の女性陣は皆、些細な変化に気が付く彼に好感を持った。
私も例外ではなかったが、今、初めて彼の言葉を不快に思っている。
「自分で切ったんで下手ですけど」
「全然、可愛い。ちゃんとラウンドになってて、プロがカットしたのかと思ったよ。ただでさえ小さい顔がより小顔に見えて、思わず顔を探しちゃったよ」
ニコニコ笑いながら、冗談を言ってくる懐かしい服部節だ。
どうして、今、この状況で冗談を言えるのか理解に苦しむ。
「ご冗談を⋯⋯顔はここですよ」
私は頬を両手でムニっとしながら、彼に笑って見せた。
自分でも分からないが、彼の前だと反射的にノリに合わせてしまう。
「今、百合子の事務所で世話になっているんだって」
「はい。とても良くしてもらってます」
「それは良かった。山田さんは原くんの事で辛い思いをしただろうから、幸せになって欲しいんだよ」
私を心配するような元上司の言葉を素直に聞けない。
服部倫也の隣にいる城ヶ崎慎一郎はひたすらに彼の表情を窺っていた。
城ヶ崎慎一郎はアラフォーとは思えないくらい若々しく、客観的に見てイケメン。
服部倫也をデキル男フィルター無しで見ると、釣り合いが取れているようには思えない
でも、私は彼が非常に人から好かれる人間だと知っている。
私が一番嫌いな浮気する人間なのに、私に悪意を抱かせなかった特異な人物。
今はただ服部智也の全く悪びれもしない態度が怖い。
そういえば、川上陽菜も人の心を掴むのが抜群にうまかった。
自己愛の化け物? サイコパス?
「俺と山田さんって縁があるんだろうな。今後とも宜しくな」
服部倫也が今、どのような気持ちでバスローブ姿で私に握手を求めているのか理解できない。
20年以上妻を欺き、妻の弟と不倫してきた男。
それを知った私が動揺しているのを感じ取っているはずなのに、気が付かないふりをしている。
「服部室長。世界って狭いですね」
イッツアスモールワールド。
本当にこの世界はクズばかりで吐きそうだ。
私は慎一郎さんに目で促され、嫌々ながらも服部倫也の手を握った。
少しベタついた手のひらに鳥肌が立つ。
「それより、何か揉めてたみたいだけど、大丈夫?」
「ここは俺が解決するから、倫也さんは部屋で寛いでて」
城ヶ崎慎一郎の表情が柔らかくなり、服部倫也を気遣う。
顔を見ただけで分かる。
彼は心から服部倫也を慕っている。
あれだけ仲が良い姉を裏切れる程⋯⋯。
私は服部倫也の前では城ヶ崎慎一郎は乱暴しないのではないかと考えた。
彼は私を道具として利用しているだけだから、都合の良い時は笑顔で接するが酷い時には先程のように脅しにかかる。
乱暴な物言いで恐怖で屈服させるやり方だ。
「服部室長、一つ聞いても良いですか?」
「どうぞ。何か山田さんから質問されるの久しぶりだな。こういう風に分からない事は直ぐに聞いてくれる素直さが良いんだよな」
彼はこのように人を褒めて気持ち良くする。
私は捻くれていて、決して素直な性格ではない。
でも、「素直さが良い」と褒められると気恥ずかしくも嬉しかった。
「私が百合子さんに2人の関係をバラすとは思わないのですか? 20年の不倫関係。流石にそれなりの慰謝料を請求されると思いますよ」
私の言葉に城ヶ崎慎一郎がカッと目を見開く。
「そんな事したら、どうなるか分かってるのか? 倫也さんが慰謝料請求されたところで俺が払うけどな」
彼は予想以上に服部倫也にぞっこんなようだ。
服部倫也は口角をあげ私を笑顔で見つめている。
「山田さんはそんな事をしないよ。守秘義務を重んじるしっかり者だからな。この子、本当に出来る子なんだよ」
ポンポンと肩を叩かれ、体が強張った。
よく考えれば、この秘密は百合子さんを傷つけるだけだ。
彼女は服部倫也の裏切りに傷つき、復活し前を向いている。
だから、この秘密は私も墓まで持っていくだろう。
それでも、私が百合子さんを裏切り続ける片棒を担ぐのは耐えられない。
私はその場に両膝をついて頭を下げた。
土下座をするのは人生で初めてだ。
「私、お2人のことは生涯口外しないと誓います。だから、慎一郎さん。私との婚約を破棄してください」
土下座とはこんなにも心を削る行為だったのかと知った。
床にポタポタと自分の涙が落ちるのが見えた。
その時、突然、耳を劈くような警報音が鳴った。
『火事です! 火事です! 39階ラウンジフロアーの調理場から火災です。至急避難をしてください』