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第128話 私の弟だよ!

私たち3人は一瞬顔を見合わせる。

「避難訓練じゃないよな。今、朝の7時だし。この建物で火事なんてひとたまりもないぞ」

服部倫也が初めて動揺した顔を見せた。


この建物は40階建。

下の7階まではショッピングモール。

中層階はオフィスエリア。

32階以上がホテルスペースとなっている。

火災があったという39階はこの一階下だ。


『バルコニーの非常はしごを使い避難してください! 火事です! 火事です!』

クリスマスだというのに警報音が止まらない。


「⋯⋯非常はしご」

城ヶ崎慎一郎が唾を飲み込むのが分かった。

ここは最上階で地上に降りるまで、40階分の非常ハシゴをおりなければならない。


服部倫也は我先にと窓際に向かった。

非常時のみ開けれる仕様になっている窓のロックを外しこじ開ける。

私と城ヶ崎慎一郎も慌てて追いかけた。


風が強くて服部倫也のバスローブが捲れ上がる。

下着を履いていないのか、下半身が晒されていた。

私はその醜悪さに思わず目を背けた。


バルコニーの床部分の非常はしごを開けて、一瞬服部倫也が固まったのが分かった。

本当に心許ないハシゴだ。

「それを降りるのは現実的じゃないんじゃないですか?」

私が尋ねると、服部倫也は叫ぶ。

「こんなとこで死んでたまるか! 意地でも降りるんだよ。 他の奴に先を越されるか!」

彼はそのまま、階下までのハシゴを出し降りていってしまった。


「⋯⋯倫也さん、屋上に出てヘリを呼んだ方が早いんじゃないですか?」

「うるせえ! 俺は行くぞ! お前は勝手にしろ」


服部倫也はすごい勢いでハシゴを降りていく。

顔は真っ青で、血の気が引いている。

もしかしたら、火事に対してトラウマがあるのかもしれない。


高層の建物は火災に弱いので、少しの煙にも探知機が反応する。

だから、この火災も誤報かもしれない。


「慎一郎さん?」

慎一郎さんが服部倫也の消えたバルコニーを見つめながら呆然としていた。

「倫也さんが俺に煩いって言った」

「ふっ、1人で逃げちゃいましたね。不倫する人って自分のことしか考えないんですよ」


暫くして、階下から女性の悲鳴が聞こえた。

「きゃー! 変態! きゃー!」

階下のラウンジは火事に遭っているのではないのだろうか。

その時、部屋の入り口に置いてあるバックのスマホの着信音が聞こえる。

私は初期の電子音に設定していたはずなのに、『雨がふってきた』という童謡の着信音に変えられていた。


私は慌ててバッグからスマホを取りだし、着信ボタンを押す。

話の内容を聞かれないように扉を開けて部屋に入った。

そこは寝室でいかにも何かしてましたって嫌な匂いと乱れたシーツに気持ち悪くなってくる。


城ヶ崎慎一郎は一体何がしたいのだろう。

仲の良い姉を裏切ってまで、服部倫也のようなおじさんと関係を持つ意味が分からなかった。

私の中でゲイといえば、ムキムキの筋肉質な男がモテるイメージ。

完全にステレオタイプだったかもしれない。

服部倫也は特に鍛えていないだらしない体をしていた。


城ヶ崎慎一郎のことを私はよく分かっていない。

いつもなら人のことを徹底的に調べるのに、婚約しても彼のことを素人もしなかった。

彼も私を子を産む道具として見ていたが、私も自分の生活を安定させてくれる道具としか彼を見てなかったからだ。


もしかしたら、彼にはゲイなのに跡継ぎを迫られるストレスなどがあったのかもしれない。

特に姉に対する反発心があるようには見えなかった。


服部倫也は世の中を冷めた目で見ている私さえも、やや洗脳状態にした男だ。

そんな彼に心の隙間を見破られ、城ヶ崎慎一郎は操られていたようにさえ感じた。


『もしもし、雨くん、どうしたの? こんな朝早くに』


『もしもし、真希姉ちゃん? さっきの警報はスイートルームだけに流したから安心して』

電話先から聞こえて来たのは雨くんの声だ。


『雨くん、まさか、まだ私のこと盗聴してたの?』

『そうだよ。やっぱり、真希姉ちゃんは危なっかしいからな。でも、助けられたよね』

私は自分が土下座した時の絶望的な感情を思い出していた。

あの状況は会話の内容から彼に伝わっていたのだろう。


『⋯⋯どうやったの? 本当に何でも出来るのね』

『ちょっと犯罪スレスレな事はしたかな。まあ、俺は犯罪者の息子だから仕方ないって許して』

犯罪スレスレというより、彼はハッキングして誤報を流したのだから犯罪だ。

彼の道徳観は危うくて心配だが、彼の行動は一貫して私の為だと伝わってっくる。


『許さない! 私のことは良いから自分を大事にして! 雨くんは犯罪者の息子じゃない! 私の弟だよ!』

雨くんの私への気持ちは歪んでいる。

でも、彼が私に幸せになって欲しいと思っているのは伝わってくる。


『真希姉ちゃん、ごめん。でも、真希姉ちゃんが辛い思いするのは嫌なんだ』

『ありがとう。私も雨くんが悪い事をするのは嫌。私もしっかりするから、心配しないで自分を幸せにする事に集中して』

『⋯⋯分かった。真希姉ちゃんが言うなら、真っ当に生きる。じゃあ、聡さんと頑張って』


雨くんの言葉に昨晩の聡さんのやりとりも盗聴されてたと気がつき、恥ずかしくて固まる。



電話を切って、寝室を出ると未だ呆然としている城ヶ崎慎一郎が目に入った。

「倫也さん、中学生の頃、家が火事になったんだ。だから、火にトラウマがあって動揺したのかも。普段だったら、俺を置いて逃げたりしないんだ。昔から俺の事を誰より大切にしてくれて⋯⋯」

「慎一郎さん、非常時にこそ人の本質が出るんですよ。今頃、服部倫也はラウンジフロアーで朝食をしていた人たちに、変態扱いされて捕まってるかもしれません。さっきの火災警報は誤報です」


朝食を食べていたら、突然、窓際にバスローブの肌けた中年が現れたら動揺し通報するだろう。

先程のバスローブにフルチンで我先にと逃げた男を見て、彼も少し恋から覚めたような感がある。


「百合子さんだったら、慎一郎さんをまず逃すと思います」

何気なく想像で言った言葉だったが、城ヶ崎慎一郎には響いたようだ。

私の知る百合子さんは弟をとても大切に思っているように見えた。


「ははっ、俺は本当に馬鹿だな」

彼が急に蹲って頭を抱えて泣き出した。


私は彼が泣き止むまで傍にいた。



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