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7 共に生きたいと望む未来へ

35)


 妃教育とは、花嫁修業ともいう。それは、聖女および聖王女としての役目を戴いていたときと似て異なるものではあったが、いずれこの先、騎士王の花嫁になることを見据えられて与えられた教育&修行はスパルタ的だった……。

 帝王学、歴史学、地理学、経営学、などの座学はもちろん、マナー作法講座、貴族の交流会と宮廷元老院の組織関係図の把握、食事と栄養学、魔法薬学や宝石鑑定術。そして、基礎体力トレーニング、護身術、ダンスレッスン、などの実践……エトセトラ。

 とにかくやることが幅広い。救いの象徴と器であった聖女とはまた違った苦悶が多くあった。

 無論レイラは読書が大好きで、前世も勉強は嫌いな方ではなく、むしろ知識欲を満たしてくれる時間は好ましいものなのだが、問題は主に後半の実践の方だった。

 基礎トレーニングでは筋力ストレッチを行い、護身術では刃のない短剣を使って、担当の騎士と取っ組み合いをすることに……。そのあとにダンスレッスンをするといったハードトレーニングでレイラはすっかりヘロヘロだった。

(異世界転生したところで、基礎体力は変わらないのね……灰をかぶった本の虫だったんだからあたりまえといえばそうね)

 おかげで、久方ぶりに前世のことを思い出す始末。乙女ゲーマーとして引きこもっていたレイラに体力などあるはずがない。

 部屋に戻ってくる頃にはまるで嘲笑うかのように膝がかくかくと震えていた。

「お疲れ様です。レイラ様」

 相変らず側に仕えてくれている侍女のアビーも苦笑を浮かべている。

「ノーマンが張り切りすぎるせいよ。スケジュールの組み方があまりにもハードで雑だわ。おかげで肩も腕も上がらないし、背中が攣っている気がするもの。朝方に筋肉痛で目が覚めるかもしれない……悲鳴をあげたら察してほしいわ」

 慰めるようにアビーはお茶を入れてくれる。薔薇の花びらが浮かんだローズヒップティーだった。中には蜂蜜が入っていて、レモンを砕いた粒と砂糖を絡めたドライフルーツが下の方に沈んでいる。彼女の気遣いにレイラは感謝しかなかった。

「美しい花嫁ドレスを着ていただきたいからではないですか? 姿勢を正すということは即ち、気を調えるということでもあると聞いたことがあります。神聖な場に相応しく美しい女性であってほしいという願いなのだと思います」

「アビーがいうととても正論に聞こえるし、その通りに素敵な励みになるけれど、ノーマンのこう、なんともいえない性格的なものが……」

 お茶をゆっくりと流し込みながら、ノーマンの顔を思い出す。

 嫌味と皮肉を駆使したノーマンの言葉の表現に敵うものなどいるだろうか。弁の立つ男を言い負かすのは骨のいることなのだ。

 反論を聞き入れないというだけなら諦めもつくけれど、彼の場合、反論は聞き入れるが、その倍返しで論破してくるのである。

「ふふ。レイラ様のお目付け役ですからね。やはり目をかけてきた程、可愛いものなのではないですか? 私も、レイラ様が輝ける花嫁ドレスに身を包み、アシュリー様と共に並ぶ日を心待ちにしておりますよ。きっと、レイラ様はよりいっそうお美しく、アシュリー様はよりいっそう麗しいのでしょうね」

 目を細めるように感慨深げに言うアビーを見ていたら、なんだかちょっとしんみりした気持ちになってしまった。

「アビー……」

「私の弟も、アシュリー様のファンなのです。聖剣の担い手であるアシュリー様こそ、さすが騎士王に相応しい、そんなふうに騎士様たちの間でも期待の声が大きいのです」

「そうなのね。さすがアシュリーだわ」

「ええ。私もなんだか誇らしい気持ちです。弟にも立派な騎士であってほしいと思います」

 アビーが弟を語るときの顔はやさしい姉そのものだ。レイラはアビー自身の話を聞くのが好きだった。ほっこりとした気持ちにさせてもらえる。

「ところで」とアビーが声を潜めた。

「円卓の騎士様達に縁談が殺到しているという噂があるのですが……」

「えっ」

「ご存じなかったですか? 今日もどなたかがご令嬢と王宮内でお会いする約束をされているのだとか」

「知らなかったわ。どちらのご令嬢なのかしら」

「私もそこまでは存じ上げませんが……私たち使用人の女達は、騎士様に憧れているものが多くおりますので、その、ショックを受ける者もいて今ちょっと大変なのです」

 アビーがそう言い、肩を竦めてみせた。

「そうだったの。知らなかったわ……」

 レイラもたちまち興味が湧いた。そしてそのとき不意にヒロインの存在を思い出していた。

(そうよ。ヒロインのニーナに一度も遭遇していない)

 レイラが聖女から聖王女にパワーアップし、それから聖騎士に力を譲渡したあと、王女という身分に落ち着いた。

 つまり物語としては王女が存在することに齟齬はない。レイラがヒロインとして王宮にいるということはなんらおかしくない話――。

(灰かぶり姫そして本の虫っていうモブからのスタートではあったけど)

 でも、それはあくまでもレイラの視点での考え方だ。俯瞰したり、客観視したりしてみれば、他の景色が浮き彫りになってくる。

 レイラは誰かの世界の登場人物の一人でしかないかもしれないのだ。

 そう認識した途端、今いる景色が急に遠ざかるような気がしてレイラは不安に陥った。地面がぐらつくような感覚が否めない。

(もしも、ここからが物語のスタートで、ヒロインのニーナが現れて……それで、アシュリーがニーナと結ばれるようなルートができてしまったら?)

 そんなふうにうっかり想像してしまったせいで、たちまち不安になってくる。

(バカね。もしもの話なんて考えちゃだめなのに。妄想癖はこれだから……)

 でも、考えてしまったらもう止まらなかった。


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