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36)

「私、休憩の間に、少しアシュリーに会ってきてもいいかしら? アビーは騎士様たちがどこにいるか知っている?」

 たしか遠征があって詰所に戻ってくる時間だとノーマンからは聞いていた。

「アシュリー様でしたら、先ほど詰所から移動してこられたらしく、厩で馬のお世話をしておりましたが、昼前に稽古があるとのことでしたので……今ごろは剣技の間にいらっしゃるのではないでしょうか」

「そう。じゃあ剣技の間に顔を出してみるわ」

「それは構わないかと思いますが、レイラ様大丈夫ですか? 顔色があまりよくないようです」

「平気よ。きっと、アシュリーに会ったら解決するの」

 心配させまいと笑顔でそう言うと、アビーはまぁと口元に手をあてた。

「それじゃあ、行ってくるわね。次の座学と薬学がはじまるまでには戻るつもりよ」

「はい。承知いたしました。お気をつけて」

 きっと大丈夫。ご令嬢と会うと言っていたのは他の円卓の騎士の誰かなのだから。アシュリーは違う。いつか来たる日に結婚を申し込むと誓ってくれた。アシュリーの顔を見れば、いつも通りに気持ちが落ち着くはずだから。

 レイラは足早に剣技の間に向かう。その途中で、ロイドの姿を発見した。彼は照れたように赤い髪をかき上げ、それから隣にいる女性に笑顔を向けた。

(あっ……!)

 レイラはとっさに柱の陰に隠れた。

 その女性こそが縁談相手のご令嬢なのかもしれない。一体どんな人なのだろう、と確認したそのとき。レイラは息が止まりそうになった。

「ニーナ……!」

 ロイドの隣にいた彼女こそが、ニーナ・プレスコット――この世界の正式なヒロインだったからだ。

 レイラの零れた声に、ロイドとニーナが揃って振り向く。

 まずいわ、とレイラは柱の後ろに背を預け、彼らの視界から消えるように念じる。

(お願い。今は立ち去って……!)

 確かめたい気持ちはあった。けれど、今の今は混乱して何を言い出すかわからない。

「レイラ様?」

 と、別の方から声をかけられて、レイラはびくりと肩を揺らす。その声の主は、レイラが今会いに行こうとしていたアシュリーだった。

「どうなされ――」

 ……たのですか。

 その言葉を封じるようにレイラはアシュリーの手を引っ張って駆けだす。

「今は何も聞かないで、私と一緒にここから逃げてほしいの」

 ぐいぐいと引っ張るレイラの様子にアシュリーも何かを察したのか、手をしっかりと握り直して一緒に駆けだしてくれた。

 とりあえず身を隠せる場所に避難しようと回廊を駆けだした末に、秋の薔薇が見事に咲き誇る庭園へと躍り出た。

「はぁ……はぁ、……ここまで来れば、安心ね」

 さっきまで稽古をしていたせいで疲労感が半端ない。レイラはすっかり息が切れている。それに対し、アシュリーはさすが息ひとつ乱していない。

「一体どうなさったのですか? もしやノーマン様のおそろしい教育から逃亡……?」

 困惑するアシュリーに対し、ひとまずレイラは呼吸を整えつつ言い訳をする。

「おそろしい教育というのは、あながち間違えていないのだけれど……それはちゃんとこなしました。私だって真面目にやるときはやるのよ」

「これは、失礼しました。では、どのような問題が発生したのでしょう?」

「それは……」

 なんて言ったらいいのか、レイラはすぐには言葉にできなかった。

 その問題について触れるには、レイラから見たこの世界についても触れる必要が出てきてしまう。それもそれで問題な気がする。

 レイラは誰にも、未来の夫になるアシュリーにさえも、レイラが前世の記憶を持った転生者であることは打ち明けてはいないのだから。

(打ち明けたことで世界の均衡が崩れてしまう……なんてことがあったら?)

 考えすぎかもしれないが、ニーナの出現によってレイラは様々な可能性を思い浮かべてしまっていたのだ。

「レイラ様、こちらへ」

 アシュリーが手を引っ張って薔薇園の中へと踏み入る。そこはどこからも死角になっていて、周りからはすっぽりと隠されてしまった。すると、アシュリーがレイラの額へとキスを落とした。

「……っアシュリー」

「しっ……」

 アシュリーはさらにレイラの眦に、それから耳にキスをした。

「……んっ……アシュリーったら、いきなり何」

「ダメですよ。気付かれてしまいます。声を出してはいけませんよ」

 悪戯っぽい瞳を覗かせたアシュリーに思いがけずドキリとする。

「そ、んな……」

 あの日から、アシュリーのレイラに対する態度は時々こんなふうに甘くなる。

 普段は真面目で堅物な彼だけれど、意地悪なところも少し見え隠れする。そうしてレイラを翻弄してどこまでも可愛がって甘やかすのだ。以前距離を置かれていたことを考えたら、とても嬉しいけれど、くすぐったくて恥ずかしい。

(アシュリーは恋人になると甘々で溺愛になるタイプだったのね……!)

 顔中にキスをするアシュリーに少しだけ笑って、それから見つめ合ったあと、軽く唇を重ね合わせた。もちろん降参したのはレイラの方だ。

「これ以上は……あなたのことが欲しくなってしまうもの」

「ええ。ここではさすがに長い時間、愛し合うことはできません。また夜に……」

 夜に、という言葉にレイラはまた顔を赤くしつつ頷く。最後にひとつだけ互いに唇をくっつけた。

「それで、心を乱された理由を、教えていただけますか?」

 アシュリーには敵わない。レイラのことをよく理解してくれている。

(アシュリーにだったら打ち明けてもいいわよね? 大事な夫になる人だもの)

 レイラは観念したように目を瞑る。それから勇気を出して、おとぎ話のような不思議な転生物語を、アシュリーに話して聞かせたのだった。



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