目の前には巨大な狼の魔獣。ポスカの身長よりも大きく、鋭い牙は人間の頭なんて簡単にかみ砕くだろう。
「俺はケルベロスの肉を食べたことがないし、評判も聞いたことがない」
「そうですか。私も未経験ですが、この獰猛な顔つきからしてあまりおいしくはなさそうに思えますね」
「同意見だ。やはり野生の魔獣だけあって身体が引き締まっているから、肉は硬いかもな」
「味はどう予想しますか?」
「獣の肉というのはクセが強くて人を選ぶ。あまり期待しないほうがいい」
「大丈夫です。最初からあまり期待していません。言ってみただけです」
「あのあのっ!」
のんびりとした様子のポスカとエステルを見かねて、サラは会話に割り込んだ。
「さっきからまったりしすぎじゃないですかぁ!?」
なんせ、目の前には鋭い牙を剥き、今にも飛びかかってきそうな巨大なケルベロスがいるわけで。
グワオオーーー!! と森中に響き渡るほどの声でケルベロスが吠えた。
「いやぁぁぁあああ!!!? すっごく怒ってるんですけど!?」
サラは震え上がってポスカの背中に隠れる。
「先ほどポスカ様が始末したのが、こいつの子分か何かだったのでは?」
「なるほど、それは怒るわけだ。敵討ちというわけだな」
「あわわわっ、納得してる場合じゃないですよ! 危ないですよ!」
「確かにこの森には魔獣が生息していて、サラが一人で歩くには危険だ。エステル、少しケルベロスを足止めしておいてくれるか?」
「承知しました」
エステルはケルベロスのほうへゆっくりと歩み出て手を伸ばし、手のひらを敵に向けた。
ケルベロスはエステルに向かって前足の鋭い爪を振り下ろした。
「危ないっ!!」
サラの叫びは、キィン! という甲高い音にかき消された。ケルベロスの爪がエステルに届く寸前のところで、何かに弾き返されたのだ。
「危なくはありません。防護結界を張ったので」
エステルは当然のように答えた。エステルとケルベロスとの間にいつの間にか半透明の壁のようなものがあった。その壁は地面からエステルの頭上へと滑らかな局面を描き、サラやポスカをも包む半球状になっていた。
ケルベロスが再びグワオオーーー!! と吠えた。おさまらぬ怒りに任せ、三人をなんとしても切り裂いてやろうと立て続けに前足を振り下ろしてくる。そのたびに半透明の壁が攻撃を阻み、キィンキィンキィンと耳障りな音が響き渡った。
「やかましいですねぇ」
エステルは顔をしかめ、再び手のひらをケルベロスに向けた。すると音が止んだ。ケルベロスは相変わらず攻撃を続けているが、なぜか静かになったのだ。
「音がしなくなった……?」
「音を遮断する結界も張っておきました。ついでに匂いも遮断しました。ちゃんと水浴びをしてから襲いにきてほしかったですねぇ」
「助かる。ではサラ、このまま少し話をしようか」
「この状況で!? 何の話!?」
「見ての通りケルベロスは俺たちを襲えない。……怖いか?」
「はい、まあ……ちょっと……」
ケルベロスは今も結界の外で、半透明の壁と挌闘していた。その迫力が嘘のように静かで振動すら感じない。なんだかサラはこの魔獣がちょっと憐れに思えてきた。
「怖いけど……ポスカ様と一緒なら大丈夫な気がします」
「そうか、では話を始めるぞ。エステルの鑑定によると、サラはほぼ魔力を持っていない」
「魔法の才能がないのは知ってたけど、いつの間に鑑定したんですか」
多くの人間は魔法が使えない。魔法が使える人間はたいてい冒険者としてギルドに所属し、魔獣討伐などの仕事をして生活している。
「初めて対面したときだ。ところでサラ、『魔法の才能がない』という認識は間違いだ」
「え?」
「サラは魔力を持たないのであって、魔法の才能を持たないわけではない。そもそも魔力の有無、多い少ないと魔法の才能には関係がない」
「そ、そうなの!? 『魔法が使えないのは、魔法の才能がないからだ』っていうのが、常識だと思ってたのに……」
「それは完全な間違いだ。今、証明してみせよう。もし、君が望めばだが」
ポスカはエステルに真剣な顔で問う。
「俺はサラに魔力を分け与えることができる。そうすれば、サラは魔法が使えるようになるだろう」
「ホントに!?」
「100%とは言わないが、かなり高確率でな。だがその代わり、サラは純粋な人間ではなくなる。半人間、半魔族として生きていくことになる。魔力を持たない者に魔力を与えるとは、そういうことだ」
「いいですっ!」
サラは即答した。
「あたし、魔法を使ってみたい! それにポスカ様は魔族ですよね。ポスカ様に少しでも近づけるなら、半魔族にでも半裸族にでもなります!」
「いや、脱がなくていい……。念のため言っておくが、半人間・半魔族というのは、両方の種族から忌み嫌われる可能性もある。厄介な問題に巻き込まれる可能性だってある」
「あたしが人間からも魔族から忌み嫌われたら、ポスカ様はあたしをどうするの?」
「何も変わらない。最後まで保護する」
「じゃあ大丈夫。何も不安じゃないし。魔法が使えるようになる夢みたいなチャンスを、そんな『可能性』ごときにビビッて逃しちゃうほうが、絶対後悔する」
「可能性ごとき、と言っても、ほぼ確実になんらかの不便や生きにくさは付きまとうと思ってほしい」
「うん、大丈夫です。後悔しない。お願いします」
サラはぺこりと頭を下げた。
「分かった。俺の魔力を分け与えよう。じっとして、目を閉じて」
「……はい」
サラは目を閉じる。
ポスカはサラの額に手のひらをかざした。
「少し痛むぞ」
サラは額に熱を感じた。その熱は急速に温度を増して、ほんの数秒のうちに焼けるような痛みになった。
「いたっ……!」
「目を開けていいぞ」
サラは恐る恐る目を開けた。
さっき痛みを感じたところに触れてみる。額の一部がまだ少し熱を持っていた。
「何がどうなったの……?」
ポスカが手のひらサイズの、磨かれた石を差し出した。そこにはサラの顔が映っている。
「あっ……!」
右の額の辺りから、頬や目の辺りまで、肌に見慣れない紋様が広がっている。
「魔力を受け入れたことによる副作用だ。残念だが、そいつは一生消えない」
「残念だなんて!」
サラはむしろ笑顔で答える。
「あたし、ポスカ様にちょっとだけ近づけたんですね! なんだか嬉しい!」
「いちいち抱きつかないでもらえます?」
二人を見ていたエステルがにらんだ。
「いいじゃないですかー」
「よくないです。私はポスカ様をお守りする義務があるので」
「何もしないってば」
サラはポスカから離れた。
「ところでサラ、魔力が身体に満ちたのを感じるか?」
ポスカが話を戻した。
「うーん、なんとなく……?」
「そうか。いずれだんだんと感じられるだろう。とりあえず、自衛できるくらいの力は授けてある。そこにちょうどいい魔獣がいるから、試してみるといい」
「魔獣?」
サラは振り返った。ケルベロスが結界を突破しようとして、がむしゃらに両足を振り乱している。
サラはギョッとして後ずさり、
「静かだから忘れてたけど魔獣いたしっ!」
「だから事あるごとにポスカ様に抱き着くのをやめてもらえません?」
「あ、今回はうっかりです」
不機嫌そうなエステルに配慮して、サラはすぐにポスカから離れた。
「では、あいつに手のひらを向けて」
「はい」
サラは言う通りに手を伸ばした。
「自分があいつを殴り倒すところを強くイメージする」
「な、殴り倒すところ!?」
サラは困惑しつつも頭の中でケルベロスにパンチを食らわせている自分の姿を思い浮かべた。ありえなすぎて笑いそうになる。だけど、想像すればするほど馬鹿げていて、面白くなってきた。
「ふふっ……んふふふっ……」
「想像できたみたいだな? 俺のあとに続いて言ってくれ。……ひれ伏せ」
「……ひれ伏せ」
その瞬間、ケルベロスの頭上で何かが光った。