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第21話

 軋んだ音が村中に響くようだった。薄汚れた壁の下に、一人の女が倒れている。

 血まみれだった。辛うじて息が聞こえた。

 男が一人、虚ろな目をして立っている。黄ばんだ畳に尿が滴り落ちていた。

「死んでるのか」

 男の目が微かに動いた。

「出ろ。連れてってやる」

 ミノルは男を連れて森に出た。入口の女神像が二体、見下ろしている。

 像の間から暗闇が続いていた。目を凝らしても奥まではとても見えない。

「森を抜けるぞ。そのあとは向こうに任せる」

「……塔、ですか」

「そうだ。あれだ。あそこに伸びているのがそうだ」

 ミノルは塔の方向に目をやった。遥か上空に厚い雲が覆っている。塔はマッチ棒程度の大きさで確認できた。

「まさか俺たちが面倒見てると思ってねえみたいだな」

「私も知りません」

「お前さんみたいな男を更生するために、わざわざ手を入れたんだよ。あそこ、大昔にタコ部屋だったんだろ? それに触れちゃいけねえとばかり、誰も話そうとしないのさ。だったら壊せよって俺なんか思うわけだ」

「……一つだけ」

「何だ。言っとくけど村には帰れないぜ」

「わかっています。塔に向かうまで、どこかに立ち寄るんでしょうか。小便とか」

「そうだよな。俺もトラックに乗るからよ。一時間もすれば休憩だ」

「……サービスエリアに」

「馬鹿か。そんな文明の利器があるわけないだろ。もし喉が渇いてりゃ、てめえで小便飲めばいい。それが休憩だ」

「……はい」

「ちと荒っぽいドライバーだ」

 男は口を閉ざした。ミノルは鼻で笑うと、村の通りを見た。

「私、一般人ですよ」

「だから何だ。堅気なんですって言い訳は通用しねえよ。トラックの中じゃみんな同じだ。男も女も、その中間も。死んだ人間以外はみんな同じなんだよ」

「あの塔はどこにあるんです? ここからは見えますが」

「トラックを待つんだな。嫌でも沈黙が始まる」

「人を殴ったことは認めます。でも塔の住所がどこにあるかは知らないんです。村のみんな、誰一人も」

 砂埃をあげて一台のトラックが女神像に着いた。戦地の搬送車のようだった。

 窓が開く。運転手が顔を出した。ミノルの顔を見て無言だった。

「乗れ」

 男は荷台に向かった。すでに何人か乗車していた。

「いいか。しばらくこの中で過ごせ。倉庫に着いたら、現地に従えばいい」

「待ってください。僕はどうなるんです? K地区で何をするんです?」

「馬鹿か。てめえの罪に聞けばいいだろ」

 ミノルは言った。



 森の入口に老人が座っている。

「不思議なことに、私は演奏を続けたんだ。会場にはドラムだけが聞こえた。ブサイクで、下手くそな音だけが」

 辰は言った。

「李子のプライド、踏みにじったわけだよな」

「そうじゃないと誰が言える? この両手を止めることができなかったのさ。ジャズを始めたこの手をだ」

「ジャンルの問題じゃないと思うぜ。俺たち悪党も、村のジジババもみんな、あんたのドラムが大好きだった」

「誤解だ。私は同情を買っただけなんだ。若い娘がステージに上がり込んで、台無しにされた。世間ではそう思われている。哀れな老人でいい」

「あんたの考えこそ誤解だと思うぜ。そのガキの泣き面に花を添えたドラマーだろ。最高じゃねえかよ。俺、チカチーロが音楽やめると思ってねえんだ。太鼓叩きに引退なんかないだろ」

「ミノル」

 辰は腰を上げた。

「ここでもう少し待ってくれないか。必ず隆五の奴が来る。お前さんと顔を合わせてやりたい」

「駄目だ。あいつらを迎えなきゃいけない。向こうで会う約束してんだよ。ガソリン代も安くねえんだ」

「ギャングを続けるのか? あの村だっていつまでも人がいるわけじゃない。老いたよ、皆皺くちゃだ。私が音楽をやれば、お前さんたちの面を汚す」

「待った。フェスを成功に導いたのはチカチーロだ。村人の顔、見たか? 喜んでたよな?」

「そうは思わない。あの子たちは前座だが、立派だった。メンバーを無視したのは私の手だ。切り落としても構わないとさえ思う……それが李子への罪滅ぼしになるなら」

「ほんとうちの親分が言った通りだな。あんたの性格、理解したつもりでいたけど。悪いが俺たち、女神の目を盗むのが商売なんだよ。こうして、ジジイと話すことも含めてな」

「私は動かない。ここで仲間を待つ。ギャングならそれを許せ」

「……わかった。そう伝えておくよ。森の前に、クソジジイがいるってことをな」 

 ミノルは辰の元を去った。

 女神像を潜り抜け、静かに森の奥へ入っていった。 



 ヒトであると判別できているようだ。二本の角。額には汗が流れている。 

「おい」

 ミノルは言った。赤鬼は後退した。子供らしい。

「ここでヒト、見なかったか? 怖い顔の」

 赤鬼は首を振った。

「言葉、わかんねえだろうけど。お前たちを脅す趣味はないぜ。安心しな」

 赤鬼の口が開いた。何か発するようだった。

「いいぞ。知ってることでいい」

 長い爪が光った。ミノルの背中、女神像を指差している。

「あそこにはジジイしかいねえぞ」

 鬼は首を必死で振っている。違う。

「わかった。お前たちを理解してやる」

「……ギギ。ギギ」

「何だ? ヒトを見たって言いたいのか?」

 鬼は辛うじて言葉を出し続けた。叱られた子供が泣いているようだった。

 ミノルは鬼と別れた。森の中は暖かく、地面には陽を浴びた木の陰が隙間なく伸びている。奥までは見えなかった。太古より人が歩くため、不思議と迷う気配はなかった。

 ふと道を振り返った。ついさっき話した赤鬼が消えている。鬼は言葉を知らないようだった。

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