軋んだ音が村中に響くようだった。薄汚れた壁の下に、一人の女が倒れている。
血まみれだった。辛うじて息が聞こえた。
男が一人、虚ろな目をして立っている。黄ばんだ畳に尿が滴り落ちていた。
「死んでるのか」
男の目が微かに動いた。
「出ろ。連れてってやる」
ミノルは男を連れて森に出た。入口の女神像が二体、見下ろしている。
像の間から暗闇が続いていた。目を凝らしても奥まではとても見えない。
「森を抜けるぞ。そのあとは向こうに任せる」
「……塔、ですか」
「そうだ。あれだ。あそこに伸びているのがそうだ」
ミノルは塔の方向に目をやった。遥か上空に厚い雲が覆っている。塔はマッチ棒程度の大きさで確認できた。
「まさか俺たちが面倒見てると思ってねえみたいだな」
「私も知りません」
「お前さんみたいな男を更生するために、わざわざ手を入れたんだよ。あそこ、大昔にタコ部屋だったんだろ? それに触れちゃいけねえとばかり、誰も話そうとしないのさ。だったら壊せよって俺なんか思うわけだ」
「……一つだけ」
「何だ。言っとくけど村には帰れないぜ」
「わかっています。塔に向かうまで、どこかに立ち寄るんでしょうか。小便とか」
「そうだよな。俺もトラックに乗るからよ。一時間もすれば休憩だ」
「……サービスエリアに」
「馬鹿か。そんな文明の利器があるわけないだろ。もし喉が渇いてりゃ、てめえで小便飲めばいい。それが休憩だ」
「……はい」
「ちと荒っぽいドライバーだ」
男は口を閉ざした。ミノルは鼻で笑うと、村の通りを見た。
「私、一般人ですよ」
「だから何だ。堅気なんですって言い訳は通用しねえよ。トラックの中じゃみんな同じだ。男も女も、その中間も。死んだ人間以外はみんな同じなんだよ」
「あの塔はどこにあるんです? ここからは見えますが」
「トラックを待つんだな。嫌でも沈黙が始まる」
「人を殴ったことは認めます。でも塔の住所がどこにあるかは知らないんです。村のみんな、誰一人も」
砂埃をあげて一台のトラックが女神像に着いた。戦地の搬送車のようだった。
窓が開く。運転手が顔を出した。ミノルの顔を見て無言だった。
「乗れ」
男は荷台に向かった。すでに何人か乗車していた。
「いいか。しばらくこの中で過ごせ。倉庫に着いたら、現地に従えばいい」
「待ってください。僕はどうなるんです? K地区で何をするんです?」
「馬鹿か。てめえの罪に聞けばいいだろ」
ミノルは言った。
森の入口に老人が座っている。
「不思議なことに、私は演奏を続けたんだ。会場にはドラムだけが聞こえた。ブサイクで、下手くそな音だけが」
辰は言った。
「李子のプライド、踏みにじったわけだよな」
「そうじゃないと誰が言える? この両手を止めることができなかったのさ。ジャズを始めたこの手をだ」
「ジャンルの問題じゃないと思うぜ。俺たち悪党も、村のジジババもみんな、あんたのドラムが大好きだった」
「誤解だ。私は同情を買っただけなんだ。若い娘がステージに上がり込んで、台無しにされた。世間ではそう思われている。哀れな老人でいい」
「あんたの考えこそ誤解だと思うぜ。そのガキの泣き面に花を添えたドラマーだろ。最高じゃねえかよ。俺、チカチーロが音楽やめると思ってねえんだ。太鼓叩きに引退なんかないだろ」
「ミノル」
辰は腰を上げた。
「ここでもう少し待ってくれないか。必ず隆五の奴が来る。お前さんと顔を合わせてやりたい」
「駄目だ。あいつらを迎えなきゃいけない。向こうで会う約束してんだよ。ガソリン代も安くねえんだ」
「ギャングを続けるのか? あの村だっていつまでも人がいるわけじゃない。老いたよ、皆皺くちゃだ。私が音楽をやれば、お前さんたちの面を汚す」
「待った。フェスを成功に導いたのはチカチーロだ。村人の顔、見たか? 喜んでたよな?」
「そうは思わない。あの子たちは前座だが、立派だった。メンバーを無視したのは私の手だ。切り落としても構わないとさえ思う……それが李子への罪滅ぼしになるなら」
「ほんとうちの親分が言った通りだな。あんたの性格、理解したつもりでいたけど。悪いが俺たち、女神の目を盗むのが商売なんだよ。こうして、ジジイと話すことも含めてな」
「私は動かない。ここで仲間を待つ。ギャングならそれを許せ」
「……わかった。そう伝えておくよ。森の前に、クソジジイがいるってことをな」
ミノルは辰の元を去った。
女神像を潜り抜け、静かに森の奥へ入っていった。
ヒトであると判別できているようだ。二本の角。額には汗が流れている。
「おい」
ミノルは言った。赤鬼は後退した。子供らしい。
「ここでヒト、見なかったか? 怖い顔の」
赤鬼は首を振った。
「言葉、わかんねえだろうけど。お前たちを脅す趣味はないぜ。安心しな」
赤鬼の口が開いた。何か発するようだった。
「いいぞ。知ってることでいい」
長い爪が光った。ミノルの背中、女神像を指差している。
「あそこにはジジイしかいねえぞ」
鬼は首を必死で振っている。違う。
「わかった。お前たちを理解してやる」
「……ギギ。ギギ」
「何だ? ヒトを見たって言いたいのか?」
鬼は辛うじて言葉を出し続けた。叱られた子供が泣いているようだった。
ミノルは鬼と別れた。森の中は暖かく、地面には陽を浴びた木の陰が隙間なく伸びている。奥までは見えなかった。太古より人が歩くため、不思議と迷う気配はなかった。
ふと道を振り返った。ついさっき話した赤鬼が消えている。鬼は言葉を知らないようだった。