『そこで……何をしてるの?』
孤児院には到底似つかわしくない、一目で上質とわかる衣服を身に着けた男の子が孤児院の庭でひとり泣いていた。
振り返ったその面立ちに、思わずはっとした。
同じ顔を、王族一族を描いた肖像画で見たことがあった。
『……あなた、もしかしてデジレ王……』
その瞬間、デジレの目に浮かぶ涙の意味がわかった。
ほんの少し前、聖女であった王妃様が病で儚くなったと聞いていた。聖女だった王妃は民にも心から愛され慕われていたから、国中が悲しみに沈んでいた。
だから泣いているのはきっと、その悲しみのせいだろうと理解したのだ。
『……大丈夫?』
おずおずとそうたずねれば、デジレは寂しげに笑った。
『もう僕はひとりぼっちだ。理解してくれる存在も、守ってくれる存在もいない……。母上だけだったんだ。あの王城で信じられるのは……』
『……ひとり、ぼっち?』
『父上は母がいなくなった悲嘆に暮れるばかりで、僕のことなんて見向きもしない』
デジレはぽつりぽつりと話してくれた。
唯一自分を愛してくれた味方を失い、孤独にさいなまれるあまり王城を飛び出してきたのだと。
『側妃は自分と血のつながった息子を次期国王にしたくて、いつも僕の命を狙ってる。いつ殺されるかもわからない……』
『側妃様が……!? そんな……』
まだ幼いデジレの命を、側妃が狙っている。なぜそんなことを、と息をのんだ。
『でも誰も助けてなんてくれない……。味方はひとりもいないんだ! あの広い敵だらけの冷たい世界でこの先もたったひとりなんて、とても耐えられない……!』
デジレの声は、胸を締めつけられるほどに悲痛だった。
誰も守ってくれる人のいない寂しさは、ひとりぼっちの胸の痛さはわかる。世界の冷たさも。
それがあまりに苦しくて寂しくて、ここから逃げ出そうとしているのだから。
気がつけば、口から言葉がこぼれ落ちていた。
『なら……、私が味方になります! 私、明日聖女になるために神殿へ行くの』
『君が……聖女に……?』
見れば、デジレの手の甲に擦り傷ができていた。
誰にも見つからないよう王城を抜け出てくる途中で、どこかに擦ってしまったのだろう。
『……うまくできるかわからないけど、見てて』
自分に聖力と呼ばれる癒しの力が備わっているのなら、この傷を癒せしてあげられるかもしれない。
心に巣くった悲しみや孤独は癒せなくても、この小さな擦り傷くらいは癒してあげたい。そう思った。
きっとこれまで聖女だった王妃様が、デジレがけがをするたびにそうしてきたように。
手のひらに全神経を集中させて、どうか傷が治りますようにと心から祈った。
すると手からまたあの仄白い光があふれ出て、デジレの手を包み込んだ。
『……! 傷が……消えてる……』
自分の手の甲を見つめデジレが、呆然とつぶやいた。
デジレの目に溜まっていた涙が、驚きのためか引っ込んでいた。
『治ったみたい……。よかった……』
どうにかうまく聖力を使えたことに安堵しながら、精一杯笑顔を作ってみせた。
きっと顔にはまったく現れていないだろうし、気味が悪いと怖がられるかもしれないけれど。
『今はこれくらいしかできないけど……、そのうち立派な聖女になって、あなたの心も癒せるように頑張るから……だから』
『君……』
『きっといつか立派な聖女になるから……。いつかきっと私が、デジレ様の味方になるから……』
『君が、僕の……味方に?』
デジレにこくりとうなずいて見せた。
『だからあなたはいつか立派な王様になって、この国をうんと優しくていい国にして!』
どうにかして元気づけてあげたかった。最愛の人を失った悲しみと、誰も手を差し伸べてくれない孤独に苦しむデジレの心を少しでも楽にしてあげたかった。
『君が……僕を癒して……? そうか……』
デジレは驚いた顔をして、こちらをじっと見ていた。
涙にぬれた夕焼けの空のような薄紫色の目があんまりきれいで、胸がドキリと大きく跳ねた。
『君……名前は?』
『……ラリエット』
デジレは何度か名前をつぶやいて、小さくうなずいた。
『そっか、……うん。わかった』
『……?』
何か納得するように何度もうなずき、顔を上げたデジレは打って変わって明るい笑みを浮かべていた。
『君が味方でいてくれるのなら、僕も君の味方になる』
『え……?』
『もしも君が世界中でたったひとりでも、誰も手を差し伸べてくれないと感じる孤独な時も、僕が味方でいる』
『王子様が……私の味方に……?』
誰にも愛されない。誰も必要としない子。うとましがられるだけの、気味悪がられるだけの呪われた子。
そんな呪いのかかった自分の味方でいてくれる?
その瞬間、自分の中で納得した。
きっと自分に聖力が与えられたのは、この人を守り支えるために違いない。自分と同じ孤独と悲しみを抱えるデジレをいつか守り支えるために、聖女になることが運命づけられていたに違いない、と。
『必ず君が助けを必要とした時は、僕が君を救いに行く。だから……約束だ。ラリエット。君がいつの日か聖女になったら、僕と一緒にこの国を守ってほしい』
『は、はい……』
『いつかきっと王城で会おう。……これは約束の印だよ。忘れないで。ラリエット』
そう言うと、デジレは庭に咲いていた名もない花を私の髪に差してくれた。小さな白い花弁のかわいらしい花を、一輪。
そしてデジレは去っていった。私の胸に未知の感情と大切な約束を残して――。
その後、デジレとの約束を果たすために立派な聖女になるのだ、と自分に言い聞かせ必死に神殿で勉強に励んだ。
聖女として力を使うために必要な知識だけでなく、国の歴史や魔獣についてもありとあらゆる文献を読み漁り学んだ。いつかそれが役に立つ日がくるかもしれない。そう思ったから。
思い返すたびに胸がほわりとあたたかくなるその感情を恋と呼ぶのだと知ったのは、随分あとになってからだった。
過去に思いを飛ばしていたラリエットの耳に、ひそひそとしたささやき声が聞こえてきた。
「見てよ。ラリエット様ったらまたあんなにこわい顔をして歩いていらっしゃるわ。ニナ様とは大違いね」
「ほんと! 不機嫌聖女とはよく言ったものね」
「同じ聖女様でもニナ様は、あんなに明るくかわいらしくていらっしゃるのに……」
「せめてあの厚ぼったい前髪、どうにかならないのかしら?」
「あれは氷のように冷たく見える水色の目を隠しているんですって! にらまれると氷漬けにされちゃうって、以前噂が立ったらしいの」
「やだぁ! 氷漬けなんて怖過ぎるわ。不機嫌聖女様にはいかにも寒々しくてぴったりだけど」
「しっ! 本人に聞こえちゃうわよ。……行きましょっ」
パタパタと遠ざかる足音を聞きながら、はぁ……とため息を吐き出した。
聖女になった今も、結局皆に遠巻きにされ気味悪がられるのは変わらない。不機嫌聖女なんて呼び名までつけられて、ひそひそと噂される日々だ。
でも聖女としての肩書のせいか、あからさまに何かを言ってくる人や嫌がらせをしてきたりする人はさすがにいないけれど。
院長の残した呪縛は今も解けないまま、心に陰を落としている。聖女となった今も。それでもデジレとのあの日の約束があるから、強く生きていける。
孤児院で虐げられていた日々に比べれば、今はとても幸せだ。こんな自分でもあたたかく迎えてくれる人たちだっている。聖女としての働きを喜んでくれる人たちだっている。
デジレにだってこの先対面する機会なんてなくても、影からそっと支え続けることができる。
そう。聖女である限り、きっと――。
落ちかけた心を奮い立たせ、ラリエットは一歩一歩今の幸せを踏みしめるように住処である聖女宮へと歩きだしたのだった。