その夜、夢を見た。
孤児院の凍えるような石造りの床に裸足で立ち、幼い自分が格子の向こうに見える小さな夜空を見上げていた。
『誰か……。助けて……』
『……』
『ここから出して……。ここは寂しいの』
『……』
『痛くて……寒くて……。ずっと、ひとりぼっちなの……』
『……』
応えてくれる声なんてない。鳥の声も聞こえない、完全なる静寂。
自分の存在を必要としてくれる人もいない。手を差し伸べてくれる人もいない。
だって呪われた子だから。ひとりの味方だって。
闇はどんどん深くなり、全身をのみ込んでいく。
けれど次の瞬間、声が聞こえた。
『もしも君が世界中でたったひとりでも、誰も手を差し伸べてくれないと感じる孤独な時も、僕が味方でいる』
懐かしい声にはっとして、夢中で手を伸ばした。
すがるように、必死に――。
そこで目が覚めた。
「……っ!」
慌てて飛び起きれば、汗と涙でぐしゃぐしゃだった。
額にべったりと張り付いた分厚い前髪をかき上げ、ごしごしと顔を拭った。
「昔の夢なんて、久しぶり……」
こんな夢を見た理由はわかっている。
孤児院であんな話をしたからだ。それに三つ子たちから聞いたあの話のせい。
足を忍ばせてそっとベランダに続く窓を開け、外に出た。
ひんやりとした夜風が、汗で濡れた肌をそっとなでていく。
(私が……デジレ殿下の、婚約者候補に……? もしそれが本当だったら、どうしよう……)
いつか立派な聖女になって、デジレと一緒に国を守る。その約束を果たしたい一心で、これまでずっと頑張ってきた。
いつかデジレの役に立てるんだと思えば、苦にもならなかった。
王城に上がってからの日々の務めだって、辛いと思ったことなんてない。
もちろん聖女として王城に上がってみれば、思い描いていた光景とは少し違っていた。
聖女がもうひとりいるなんて聞いていなかったし。
ニナは、弱気で自信のない自分とは見た目も中身も正反対な子だった。
強気であけっぴろげで感情に正直な性格のニナに、うまくやっていけるかはじめは不安だった。
けれど、いざ毎日一緒に暮らしてみればとても情が厚くて心優しい人間だとわかって安堵した。と同時に、とても好きになった。
素直に感情を表現できる生き生きとしたニナが、うらやましいと思った。
こんなふうに生きられたらいいのに、と。どうして自分はニナのようになれないんだろう、と自分が嫌にもなった。
そんなニナと自分が、デジレの婚約者候補になるかもしれない。
三つ子たちはそう言っていた。今度の建国記念の式典で、デジレの婚約者選定の話が持ち上がるのではないかと。
もしもそれが本当だったら?
ふたりともが、デジレの婚約者候補に選ばれたら……?
いつかデジレが次代の国王になってこの国を治める時、その隣にニナが寄り添っているかもしれない。
だって不機嫌聖女がデジレの婚約者に選ばれるなんてこと、絶対にあり得ないのだから。
デジレの隣にニナが立ち幸せそうに微笑んでいる姿を目にしたら、どんな気持ちになるんだろう。
幸せそうなふたりを心から祝福して、その後も変わらない気持ちであの日の約束を果たしていけるだろうか。
ふとそんなことを思った。
それから間もなくして、建国記念の式典が開催された。
パーン、パーン、パーンッ!
式のはじまりを告げる祝砲の乾いた音が、雲ひとつなく晴れ渡った空に高らかに響き渡った。
「国王陛下、ばんざーい! 側妃様、ばんざーい!」
「聖女ラリエット様、ニナ様。ばんざーい!」
「レイグランド国、ばんざーいっ!!」」」
側妃をともないゆっくりとした動きで民の前に姿を現した国王に、城下は大きな歓声に包まれた。
その割れんばかりの歓声と拍手は、空気をビリビリと震わせるほど。
年齢の割には多すぎるほどの深く険しいしわが刻み込まれた顔で、国王はゆっくり民の前へ歩み出ると、高らかに声を上げた。
「我がレイグランド国の民よ!」
威厳に満ちた声が民衆に向かって響き渡った瞬間、歓声が止みしんと静まり返った。
「皆、我がレイグランド国建国の式典によく集まってくれた! 未来永劫我が国の繁栄と安寧が続くよう、皆も心してこの国を支えてもらいたい! 今日は大いに飲み、この国の平穏を祝うがよい」
その言葉に、一層大きな歓声が沸き上がった。
国王と側妃から少し離れた位置に、三人の王子が並ぶ。
ひとりは正妃の息子である第一王子のデジレ。
その隣には側妃の子である第二王子ダルバリー、そしてその隣にはまだ背の小さな今年で十四歳になったばかりの末王子ヒュー。
もちろん聖女であるラリエットとニナも、式典に参加していた。
前髪の隙間から、そっとデジレをのぞき見た。
さらりと額に流れる黒髪に、意志の強さを感じさせる薄紫の目。
凛とした横顔に胸がドキリと大きく弾んだ。
(まさかこんなに近いなんて……! ど、どうしよう。顔が引きつって余計に怖くなってるかも……)
想像していたよりもずっと近くに、デジレが立っていた。
同じ場所に立っていると思うだけで顔に熱がこもり、気恥ずかしさから落ち着きなく上質な生地で作られたスカートの布をむぎゅむぎゅと握りしめる。
他の人たちはともかく、デジレに怖いだの気味が悪いだなんて思われたくはない。
どうにかして引きつった顔を隠そうとうつむき、足元をひたすら凝視し続けていると――。
「皆、よく聞け!」
再び国王の威厳を感じさせる深い声がして、弾かれたように顔を上げた。
(……?)
なぜか国王の顔がこちらに向いている。もしや、と嫌な予感がよぎる。
何を言うつもりかと一層顔を引きつらせていると、国王が続けた。
「今日より、デジレ王子の婚約者を決めるべく婚約者選定をはじめる!」
瞬間、割れんばかりの拍手と大歓声が沸き起こった。
「ラリエット、ニナのどちらがデジレの未来の伴侶としてふさわしいか、見極めることとなる。皆もそれをしかと見届けよ!」
「……!」
自分とニナに一斉に視線が向いたことに気づき、慌てて隣を見た。
「……」
ニナは、輝くような自信たっぷりな笑みを浮かべていた。
実に肝の据わったニナらしい落ち着きぶりである。
それに引き換え自分はと言えば――。
(どどどどど、どうしよう……! 子どもたちとリリアたちの話は本当だったのね。でも、でも……!)
ひとり全身から冷や汗をダラダラと流しながらうろたえていると、どこからか刺すような視線に気がついた。
ちらとそちらをのぞき見てみれば、そこには。
(え……?)
視線の先で、側妃がなぜかこちらを真っすぐに鋭い目で見つめていた。
同じ目を知っている。
あれは、孤児院で私を折檻する時の院長の目と同じだ。この世で一番憎いものを見るかのような、冷たい憎しみを宿らせた目。
遠い日の恐怖がよみがえって、ぞくりと体が震え身がすくんだ。
(なぜ側妃様が私を……? ううん。もしかしたら私だけじゃなく、ニナのこともにらんでる……?)
ふと見れば、デジレの隣に立つダルバリーも悔しそうな顔で爪を噛んでいた。
きっと、腹違いの兄であるデジレだけが聖女と婚約選定を行うことになって、妬んでいるのだろう。
けれどどうして側妃までもが、こんなに冷たい目で聖女である自分たちを見すえているのか。
(……そういえば側妃様って、聖女信仰のない国から嫁がれたんだったっけ。それに王妃様は聖女があんまり好きじゃないって聞いたことが……)
国王の寵愛を得られない悲しみから、聖女である王妃をうとましく思っていたというのはこの国の民なら皆知っている。王妃亡き後も、それは満たされることがなかったということも。
そのせいで、聖女である自分たちを嫌っているのだろうか。
だからあんな目で――?
そっと顔を上げてみれば、もう側妃は別の方向を向いていた。ニナが視線に気がついた様子もない。
(気のせい……だったのかな。そう……よね。いくら聖女にいい感情を抱いていないといったって、あんな目……)
きっと日差しがまぶしかったとか、何かをよく見ようとして目を細めていただけに違いない。
気を取り直し、デジレに視線を向けた。すると――。
(い、今、もしかして目が合った……? ま、まさか殿下が私を見ているはず……)
ドキドキと鼓動が収まらない胸を押さえ、この先に待ち受ける未来に心を揺らすのだった。