その日はニナの月に一度の休みだった。
いつものように、城下の外れにある小高い丘の上を訪れていた。
「会いにきてあげたわよ。ロン」
町を見下ろせるこの丘にあるこの場所は、貧しい民たちが眠る共同墓地だ。
休みのたびにここを訪れるのが、ニナのお決まりだった。
そよそよと柔らかな風が吹きそよぐ丘の上で、小さな墓の前で立ち止まった。
「今日はいい天気ね。ロン。花もきれいに咲いてるし、風も気持ちいいし」
話しかけたって、返ってくる言葉なんてない。だって相手は、とっくの昔に土の下で眠っているんだし。
弟のロンは、たったの四歳で死んだ。
『目を開けなさいっ! ロン。死んじゃだめっ。お願いだから、目を開けて……!』
せっかく生まれてきたのに、ちょっとした風邪をこじらせてあっけなく死んでしまった。
世話なんてちっともしない両親の代わりに、大事に守っていたつもりだったのに。
『なんで……。あんたがいなくなったら、あたしは……』
あの日から心の中に大きな空洞ができてしまったようで、どこか虚ろだ。
物心ついた時には、両親に無理やり薄汚い仕事をさせられていた。
幼児趣味を持った金持ち連中相手に、性を切り売りするような仕事だった。
自分の娘が恵まれた容姿を持って生まれたのを利用しようと、両親が考えたのだ。
服に隠れた肌には一切触らないことと、傷つける以外は何をしてもいい。そう言って、金と引き換えにまだ幼い娘を売ったのだ。
反吐が出るような悪趣味な人間はいるもので、噂が噂を呼んで次々に客はやってきた。
代わる代わる大きな屋敷に連れていかれ、きれいな衣装に着替えさせられ、愛でられた。
暴力を振るわれたり、決定的ないかがわしいことをされたわけじゃない。
けれど、自分に向けられるじっとりと絡みつくような視線が明らかに異常だってことはわかった。
自分がしていることのその意味を理解できたのは、五歳になった頃だった。
なんていかがわしく、汚らわしいのか。実の娘を売り物にする両親はもちろん、客たちも、そして自分も――。
まだ物心もつかない小さな子どもへ向けられる、歪んだ欲。
今はまだ小さ過ぎて、決定的な被害にはあっていない。けれどきっといつか、もっとひどいことになるに違いない。
子ども心にも、それはわかった。そしてその日は案外すぐにやってくるであろうことも。
『あたし……もうこんなのしたくない。お願い! 他の仕事ならどんなにきつくてもなんでもするから、あんな人たちのところに行かせないで!』
こんなことやりたくないと、何度も両親に訴えてはみた。
けれど――。
『はぁ⁉ 何馬鹿なこと言ってんだい! お前の取り柄は、その見た目だけなんだっ。食い扶持くらい自分で稼ぎなっ。ついでにあたしらの酒代もね!』
『子どもなんて金を運んでくる以外に、何の役に立つってんだ! わかったらさっさと行け! ニナ』
絶望の中で生きていた。
そんな中、ロンが生まれたのだ。
『この子が……あたしの、弟?』
『そうさ。だからあんたには、もっともっと金を稼いできてももらわなくちゃねぇ。この子の命は、あんたの頑張りにかかってるんだ』
『お前がこいつのミルク代を稼ぐんだ。わかったな、ニナ』
『……』
目の前で弱々しい声で泣くロンを見ていたら、未知の感情があふれ出た。
この小さな命を守らなきゃ、この子はあたしが守るんだって――。
その日から、ロンのために目をつぶった。この子のミルクを買うためなら、薄汚い仕事も仕方ないって。
ロンは体が弱くて、薬を買うためにもお金は必要だった。それに、あの両親がまともに面倒をみるはずもなかったから、母代わりになるしかなかったし。
でもロンは、死んだ。たったの四歳で、誰にも看取られることなくひとりきりで――。
ロンがいないのなら、あの両親のもとであんな仕事をし続ける理由も生きる目的もない。かと言って、まだ非力な子どもが他に生き伸びられる方法もない。
ボロボロな気分で、なぜかふらふらと教会に入った。
ロンのことも救ってくれない。自分のみじめな人生もどうにかしてくれない神なんて、これっぽっちも信じてなかったのに。
そこで、自分に聖女の力が宿っていることがわかったのだった。
ニナは小さな墓石をそっとなで、苦笑した。
「ロン……。ラリエットがね、あたしを立派な聖女だなんて言ってくれたの。ただの嘘つきのハリボテなのに。笑っちゃうよね……」
風が頬をなでていく。
「あの子ったら、ほんとお人好しよね。馬鹿がつくほど生真面目で、なのに卑屈でさ。イライラしちゃう」
風が木々の葉を揺らす音だけが、聞こえていた。
「……多分あの子はさ、デジレ王子のことが好きなんだと思うの。あんな嬉しそうに顔を真っ赤にしちゃってさ。バレバレなのよ」
恋の熱に浮かされた者特有のラリエットの顔を思い浮かべ、そっと嘆息した。
最初の顔合わせの時から、あやしんではいた。二度の顔合わせが終わり、確信した。
まるで熱に浮かされたように、上気した頬。花開く寸前の蕾のような、華やかな空気。
あの子は、デジレに恋をしている。
しかもデジレもきっと、ラリエットに特別な思いを抱いている。
だって会話の中にラリエットの名前が出るたび、目の奥にゆらりと隠し切れない熱情が揺らぐのだ。
明らかに自分に見せる外向きの顔とは違っていた。
「でもあたし、どうしても婚約者に選ばれたいの。じゃなきゃ、あいつらに一生つきまとわれるに決まってるもん……」
聖女になると決めたのは、両親から逃げ出すためだった。
聖女になればあんな仕事をさせられずに済む。聖女宮で暮らせるし、そう簡単にあいつらだって近づけないだろうと思ったから。
しかもいつか、王族の伴侶にだってなれるかもしれない。
もしそうなったらあの両親を痛い目にあわせることだってできるし、牢獄にぶち込んで一生出てこれないようにすることだってできる。
でもあのふたりが相思相愛なら、自分は――。
(選ばれるのは、ラリエットかもしれない……。あたしは婚約者にはなれない……。もしそうなったら……)
もしもデジレの婚約者になれなければ、いつまでもあの両親がいつ何時金をせびりにくるか、過去をバラされるかと怯えながらこの先の人生を生きるしかない。
しかもラグドルに無理やり聖女にしてもらったことまでバレてしまったら、当然聖女のままではいられないだろう。罪に問われる可能性だってある。
これまでの苦労が水の泡だ。
それに何より、お人好しのラリエットだって三つ子たちだってさすがに軽蔑して見放すに違いない。
(そんなの絶対に嫌だ……! それだけは……絶対に……!)
その瞬間、悪魔のような考えが脳裏をよぎった。
ならいっそデジレの心を魔力でラリエットから引き離して、あの子の口をふさいでしまえば――。
「あたしったら何を……!? なんてことを……」
またしても自分の中に浮かんだおそろしい考えに、ぶるりと体が震えた。
「あたし、そんなこと……考えてない。あの子をどうにかするなんて、そんなこと絶対に……」
パキッ……!
背後で乾いた小さな音がして、はっと我に返った。
「……誰っ!?」
そこには、ラグドルが立っていた。
あの日と同じ、ぞっとするような冷たい笑みを口元に浮かべて――。