シルクは聖樹と向かい合うと、両手を広げて木の幹を抱きしめた。
すでに二度、ハルに抱きしめられたので分かる。高さだけでなく、聖樹の幹の太さまでハルの体格と同じだと。
さすが、ハルの分身である聖樹。まるで彼を抱きしめているようだと、シルクは三度目の抱擁の温もりを肌で感じる。
(お願い……聖樹さん、力を取り戻して)
目を閉じて強く心で願う。以前は無意識ではあったが、こうやって女神の能力を発動した。
中庭の枯れた桜の木の花を満開にさせた、あの力が発動すれば、きっと聖樹だって蘇るはず。
しかし、いくら待っても、あの時のような光や温かさは発生しない。
(なんで……?)
シルクが目を開けて聖樹を見て確かめるが、何も変化はない。女神の能力は発動しなかった。
「なんで? どうやったら力が出せるの?」
あの時は無意識に力が発動したのに、今は自らの意志で願っても発動しない。今こそ聖樹を……ハルを救いたい時なのに。
シルクは恐る恐る背後を振り返り、心配そうな顔をするハルと目を合わせる。
「ハルくん、ごめんなさい……力が発動しないの……こんな時に、ごめんなさい……」
ハルはきっと、女神の能力を当てにして期待していたに違いない。その申し訳なさと自分の存在意義に不安を感じたシルクの声は震えている。
シルクが何よりも恐れている事。それを認めてしまったら全てが終わってしまいそうで怖い。
「私、私……やっぱり……女神じゃないのかも……しれない」
こんなに怖くて悲しいのに涙すら出てこない。ここまで無感情な自分が憎いとシルクは思う。
泣きたいのに泣けないのは自分の意志ではない。強制的に感情に蓋をされたような、何者かの強い意志が働いているように感じた。
「シルクちゃんっ!!」
ハルは慌ててシルクの前に立つと、両肩に手を置いて優しい口調で言い聞かせる。
「僕の方こそ、ごめんね。女神だって言いすぎて、シルクちゃんを困らせたよね。でもシルクちゃんは、やっぱり女神だよ」
「女神の能力が使えなくても……国が救えなくても?」
「国を救う方法は他にもきっとあるよ。それに能力は関係ない。シルクちゃんは僕の女神だからね」
そう言って、ハルはわざとキザっぽく笑ってウインクをしてくる。これが命が尽きかけている神の笑顔なのかと思うと、胸が痛く張り裂けそうになる。
なんとかしてハルを救いたいという、シルクの気持ちは今も折れてはいない。
シルクは自然と手を伸ばして、両腕をハルの背中に回して抱きしめる。初めてのシルクからの抱擁に驚いたハルの目が見開かれる。
「ハルくん、ありがとう」
特に意味も感情もない。ただ、なぜかハルを抱きしめたくなった。そして、その温もりを四度目の抱擁で再確認する。
(やっぱり似てる……夢の中の人に)
この感覚は、夢の中で女神シルクが抱き合っていた人の温もりと似ている。もしかしたら、ハルこそが過去に女神と……。
推測が確信に変わり始めた時、シルクの中で何かが弾けた。同時に誰かの声が脳内に響く。
『……愛しては、だめ!』
シルクはその声に反応して、反射的にハルから離れた。シルクが照れたのだと勘違いしたハルは、頬を赤らめながら視線を逸らした。
「あ……曇ってきたし、帰ろうか」
空を見上げると、この国の未来を暗示するかのように暗雲が立ち込めていた。
その日の夜、シルクは自室のベッドに座り、改めて日記の続きを読んでみる。
すると、先日は読めなかったページの文字が読めるようになっている。日々、少しずつ続きが読める仕組みになっているようだ。
一気に読めないのがもどかしいが、シルクは女神が綴った物語の続きを確認する。
記述によるとシーズン国とは、1年の間に春夏秋冬の季節が移り変わる唯一の国。四季の彩りがある美しい国であったらしい。
シーズン国を治める女神シルクは、春夏秋冬の4国とシーズン国、つまり全世界の季節の『安定』を司る神らしい。
(女神の能力『季節の安定』は、女神自身の心に影響される……)
確かにハルの心次第で、この国の気象は変化する。それは実証済みだ。
神は心を乱してはいけない。気を強く持たないといけないのかもしれないと、シルクは自分自身に言い聞かせた。
(だから女神は、特定の季節だけに気持ちを偏らせてはならない)
つまり女神として全世界を平等に愛せよ、という意味なのだろうか。
今日は、ここまでしか日記を解読できなかった。やはりシルクが実際に知った事実の内容までしか読ませてもらえない。まさに答え合わせでしかない。
それでも、シルクを奮い立たせるには充分だった。
その頃のハルは、自室の窓から夜空を見上げていた。月が見えるほどに雲1つない穏やかな夜は久しぶりであった。
(これも、きっとシルクちゃんの力……でも)
確かにスプリング国の気候は以前よりも安定してる。だが、国を救えるほどに劇的な変化とは言えない。
ハルは視線を落とし、自分の片手の手の平を広げて眺める。
(もう……時間がない)
グッと拳を握って目を閉じたハルの横で、温かい風が吹いたような気がした。
「綺麗な夜空ね」
ハッとしてハルが目を開けて顔を横に向けると、そこには窓から夜空を眺めているシルクの姿があった。
「えっ!? シルクちゃん、いつの間に!? ここ僕の部屋だけど!?」
「うん、知ってる。だから来たの」
そう言って微笑するシルクの落ち着きは、すでに心を決めているから。
意外とハルの部屋は簡単に入れるし、鍵がかかっていても女神の権限で開けてもらうのは容易い。
ハルは何度も勝手に女性の部屋に入ってきたが、シルクも勝手にハルの部屋に入るので、お互い様と言える。
しかし身構えたのは、なぜかハルの方。
「今度こそ夜這いなの!? そうだよね、夜だし寝間着だし! それしかないよね!」
「……なんで嬉しそうなの」
ピンクのネグリジェ姿のシルクが夜に寝室に来れば、ハルだって期待してしまう。
ハルには今のシルクの姿が、まるで桜の花の妖精のように映った。そしてハルの過酷な運命も孤独も忘れさせる、救いの女神でもある。
そしてシルクは、その期待を裏切らない。
「ハルくん、今夜は一緒に寝よう」
「……え?」
「添い寝しよう」
ハルは一瞬、思考が停止したが、すぐにその意味に気付いた。シルクが変な意味でそれを言うはずがない。
神としてではなく、男として受け入れたいと思う邪念を振り払って、ハルはなんとか理性を保つ。
「あ、添い寝の件は無理しなくていいんだよ。世界を救う方法は他にも……」
「私はハルくんと添い寝がしたいの」
「…………」
シルクの真剣な眼差しが、銀色のナイフのようにハルの心に突き刺さり痛みを伴う。
ハルは分かっている。ハルと世界を救うためなら自己犠牲を厭わない、シルクの優しさと強さを。
シルクも分かっている。ハルの命が長くはないという事、そしてハルの優しさを。だからこそ、卑怯とは分かっていても女神の権限を利用する。
「これは女神シルクとしてのお願いです。一緒に寝て下さい」
シルクは女神の権限を利用しつつも『命令』という言葉だけは避けた。あくまでシルクの『お願い』として自分の心を伝えた。
そんなシルクを目の前にしたハルは、落胆に近いショックを受けた自分の心に戸惑う。
シルクは『使命』で添い寝をしようとしている。そこにシルク自身の感情は含まれていないのだ。
……だが、どの道、自分の命は長くない。それならば世界を救う使命が先決ではないかと、ハルは自分に言い聞かせる。世界と命が消えた先に愛はないのだから。
(シルクちゃん、僕は……君を……)
この時、ハルはシルクを想う自分の恋心を自覚した。
ハルは感情を消して、シルクに向かって跪く。
「承知いたしました。女神シルク様」
神としてのハルの対応は、シルクの心にも痛みを伴った。それがなぜなのかシルク自身にも分からない。