淡いピンクの寝間着の神と、桜色のフリルのネグリジェ姿の女神。
ハルとシルクは今、真っ白なベッドの上に座って顔を見合わせている。この気恥ずかしさは新婚初夜のようだ。
シルクは相変わらずの無感情で、どちらかと言えば緊張しているのはハルの方だ。
「じゃあシルクちゃん、準備はいい? 一緒に寝るだけだよ、何もしないからね」
「……私は何もしない訳にはいかないよ。ハルくんが元気になるように祈るね」
「あ、そうだね、ありがとう……」
この添い寝は、シルクの能力を発動させてハルを救う事が目的である。何も起きなかったら単なる添い寝になってしまう。
それを分かっていても、シルクの発言は常にハルの淡い恋心を刺激する。
意を決したように、先にハルが毛布の中へと入る。そして、その隣にエスコートするようにシルクの体を優しく引き入れる。
部屋の明かりを消すと、互いの姿は全く見えない。代わりに互いに触れる体温だけが感度を増して、隣の存在を強く認識させる。
「ねぇ、ハルくん。こっち向いてもいいよ」
ハルはベッドに入った時から、ずっとシルクに背中を向けている。これはハルなりに理性を保つ手段なのだろう。
ハルは背中を向けたままでシルクに言葉を返す。
「ダメだよ。たぶん我慢できなくなるよ」
「え? 何の我慢?」
こういう時に天然を発揮するとは、何と罪深い女神なのだろうか。だがシルクは真剣だ。ハルの命と国を救うという使命がある。
正面でなくても構わない。シルクはそっと体を寄せてハルの背中に抱きついた。
(ハルくんの背中、思ったよりも広くて大きい……それに温かい)
温かいというよりも熱い。ハルは緊張でもしているのだろうか。当然、ハルは必死に耐えているのだが、その背中ではシルクが女神の祈りを捧げている。
(ハルくんが力を取り戻しますように……聖樹が蘇りますように)
強く願う事で……ハルに触れる事で女神の能力が発動するのなら、シルクは何も惜しまない。
聖樹の時は能力が発動しなかったが、同じようにハルを抱きしめて祈れば発動するかもしれない。ハルが力を取り戻せば聖樹も蘇る。ハルと聖樹は一心同体なのだから。
迷っている時間はハルに残されていない。シルクは、その可能性に賭けていた。
……だが、いくら待っても何も起きない。光も音もなく、感じられるのは二人の体温と呼吸のみ。
「ハルくん……やっぱり、だめかもしれない……」
ハルの背中に寄せたシルクの体が震える。弱気なシルクの言葉が耳に届いた瞬間に、ハルは衝動的に体を反転させた。
何が起こったのか暗闇では分からない。動かされるままにシルクは仰向けになる。ハルの息遣いが、すぐ目の前に感じられる。
「え、ハル……くん?」
シルクは気付いた。今、ハルは覆い被さる形で目の前にいる。鼻先が触れそうなほどの至近距離で。
背中から抱きしめても能力は発動しなかったから、今度は正面からという事なのかとシルクは純粋に勘違いをした。それだけ真面目で真剣だった。
だが、ハルも真剣なのは同じ。シルクがハルの背中に両腕を回して正面からの抱擁を試そうとする。その行為はハルを煽るには充分すぎる。
シルクの身体は微かに桜の香りを纏っている。入浴で桜の湯に浸かったと頭では理解するが、神経を刺激する甘い香りがハルをさらに酔わせて狂わせる。
ハルはシルクの耳に僅かに唇を触れさせて囁く。
「……キスしてもいい?」
耳に触れた感触と、悪魔のような囁きにビクッとシルクの体が反応する。決して恐怖ではないが、それをどう理解していいか分からない。
天使のようなハルの中に、悪魔のような欲望が目覚めてしまった。
「もっと触れようよ。キスで能力が発動するかもしれないよ」
そう言ってしまえば、シルクはきっと拒まない。今のハルは、シルクに触れる正当な理由として『使命』を利用しているに過ぎない。
ハル自身にも、この悪魔の誘導は卑怯だという罪悪感はある。だが、もう目覚めてしまった恋心は止められはしない。
だが今度は、ハルのその言葉に対してシルクが落胆に似たショックを受けた。
ハルが触れようとしてくる理由は単なる『使命』なのだと思うと、無感情なはずの心が締め付けられるように痛む。
だから今は、この辛さを隠してでも『使命』として向かい合うしかない。
「ハルくんがそう思うなら、いいよ……」
この言葉を言った時の辛さの意味……シルクはそれを自覚しかける。
(もしかしたら、私は……本気で……ハルくんを……)
暗闇の視界の中で、自分に近付くハルの瞳の赤が見えたような気がした。今、まさに彼と唇が触れようとしている。
だが、その瞬間。シルクが失ったはずの過去の記憶の映像が、連続的に脳裏に映し出される。
滅びたシーズン国の廃墟で一人佇む、女神シルクの姿。
両手で握りしめている銀色の短剣の刃は、自身に向けられている。
それは映画のワンシーンを見てるような、断片的な記憶の欠片。
過酷なフラッシュバックの映像に目を逸らしたくなるが、それは強制的に意識の中に流れ込んでくる。
そして再び、脳内に誰かの声が響く。
『……彼を愛しては、だめ!』
その内なる叫びは、シルクを突き動かす強制力を発動する。シルクは顔を背けて、両腕で強くハルの体を押し返す。
「ハルくん、だめっ!!」
突然の拒絶にハルは戸惑うが、暗闇ではシルクの表情がハッキリと見えない。
「あ、シルクちゃん、ごめんね……これは使命とかじゃなくて、僕は本気で……」
「それ以上言わないで!!」
無感情なはずのシルクの感情的な叫びが、暗闇の締め切った部屋に木霊する。
シルクはハルの体から逃れるようにして上半身を起こす。
「だめなの、だめなんだって……誰かが言うの!」
シルクは両耳を手で塞ぎながら顔を激しく振る。ハルも起き上がると、シルクの両肩に手を置いて顔を近付ける。
今のシルクは混乱状態に陥っていて、言葉も感情もコントロールできていない。
「落ち着いて僕に話して。誰が言うの?」
「分からない……女神? 私? が……だめだって、そう言うの」
「何がだめなの?」
「ハルくんを……好きになっては、だめだって……」
そこまで言ってから、シルクは我に返って頬を赤らめる。暗闇のおかげで、その珍しい顔もハルには見えていない。
だが、シルクにはハルの優しくて真剣な眼差しが見えるような気がする。
「僕は神としてではなく、ハルとしてシルクが好きだ」
その愛の告白を聞いた瞬間にシルクが感じたのは喜びではなく、苦しいほどの切なさ。
愛してはいけない、愛を返してはいけないという女神としての運命がシルクの心を縛る。
「僕は女神ではなく、シルクの気持ちが聞きたい」
ハルが本気の想いを寄せる度に、それを返せずに行き場を失ったシルクの心は闇を彷徨う。
「ごめんなさい、ハルくん。言えない、ごめんなさい……」
その声と肩の震えからシルクは今、涙を流しているのだとハルは気付いた。そっとシルクの肩から手を離す。
「僕の方こそ、ごめんね。……もう寝ようか」
ハルは静かに横たわると、毛布を被って背中を向けた。これ以上、今夜は何もしないという意思表示だろう。
シルクも横になると、ハルに背中を向けて毛布の中で小さく蹲る。涙は一向に止まらない。
泣きたい時に泣けないくせに、どうして泣いてはいけない時に涙が出るのだろう。ハルを傷つけたという罪悪感が悲しみを加速させる。
その涙と悲しみこそが、ハルへの気持ちが本物であるという証拠であった。
能力も発動せずに、想いも叶わない。こんなにも悲しい添い寝があるだろうか。
先の見えない暗闇の中で、シルクは眠りに落ちるまで静かに涙を流し続けた。