ハルは聖樹の前に立ち、木とは呼べないその苗木を見つめていた。
強風が吹き荒れ、横殴りの雨を全身に受けてもハルは気にしていない。全ての意識は聖樹に向けられている。
(この強風では……もう無理かもしれない)
枯れかけて弱った細い幹では、暴風雨に耐えられずに折れて倒れるのは時間の問題であった。
葉は全て落ちて飛ばされ、残された細い枝だけが強風に揺らされている。
その時、ハルは自分の隣に人の気配を感じた。ふと横を見ると、10歳にも満たないくらいの少年が聖樹を見つめていた。
傘も差せない暴風雨の中で、ハルと同じように全身を濡らしながら前だけを向いている。
「君……! 外に出たら危ないよ!」
驚いたハルが咄嗟に少年に向かって手をかざすと、結界の光が少年の全身を包む。これで少年だけは雨風の影響を受けない。
少年は悲痛な面持ちでハルの方に顔を向ける。雨に濡れて分からないが、泣いていたのかもしれない。
「ハル様……お母さんが病気なの……葉っぱ……どこ?」
「…………!!」
少年は病気の母を助けるために、万能薬になる聖樹の葉を取りに来たのだ。だが聖樹に葉は一枚も残っていない。
少年は現実を受け止めきれずに、不安の眼差しでハルに訴え続ける。
「葉っぱ、いつ生えるの……? 早くしないと、お母さんが死んじゃう……」
ハルは何も返せずに自責の念で唇を噛み締めた。自分は国民一人の命すらも救えないのだと。
この場所に来た時から、ハルはすでに覚悟を決めていた。
聖樹が倒れれば、ハルの命も尽きる。その逆も然り。聖樹とハルは命を共有しているのだから。
共倒れになるくらいなら、自分の命を全て聖樹に注ぎ、聖樹と『同化』する。
それによってハルの存在は消えるが、聖樹の余命は延びる。万能薬となる葉で人々を救える。
力を失った形だけの神よりも、その方がずっと存在意義があると思った。
ハルは少年に優しく笑いかけた。
「大丈夫だよ。僕が今、聖樹に葉が生える魔法をかけるから」
「……本当?」
「うん。お母さんに葉を持ち帰ってあげてね」
ハルは改めて正面の聖樹と向かい合う。両手を伸ばして手の平で聖樹の幹に触れる。
目を閉じて、神として最後の魔法を使う準備を始める。その最後の意識の中で心に浮かんだのは、愛しい女神の姿。
(シルクちゃん……)
ハルの最後の記憶の中のシルクは泣き顔だった。せめて笑顔の後でお別れしたかったと悔やむが、もう遅い。
聖樹とハルの体が同時に発光し、同じ光に包まれていく。聖樹とハルの『同化』が始まった。
……その時。
「ハルくーん!!」
幻聴だろうか、ハルの耳に愛しいシルクの声が響いてきた気がした。
ハルは目を閉じているので気付かないが、上空ではシルクを抱き抱えて空を飛ぶサクラの姿があった。
サクラの背には桜の花びらのような羽が生えている。春魔法、桜の羽だ。サクラはシルクをお姫様抱っこした状態で、城からここまで飛んできた。
さらにサクラの結界魔法で体を守っているため、二人とも雨風の影響は受けていない。シルクが初めてスプリング国に来た時と同じ形だ。
「ハルくん、気付いてないの!? ハルくーん!!」
シルクは上空から手を伸ばして叫ぶが、雨風の音で声が届きにくい。サクラが着地するまで待てなくて、ハルを目がけて飛び降りる勢いで身を乗り出す。
「シルク様、そんなに暴れてはっ……!」
「きゃあっ!!」
サクラの腕から完全に離れたシルクの体は、地上数メートルの高さから落下していく。
シルクの叫び声で、それがようやく現実だと気付いたハルは目を見開いて一気に意識が覚醒する。
上空を見上げて両腕を構えると、頭上から落下してくるシルクを見事に受け止める。
「……っ! シルクちゃんっ!!」
「ハルくんっ……!!」
今度はハルがシルクをお姫様抱っこしている。サクラの結界から離れたシルクは雨に濡れているが、銀色の長い髪が艶を増して美しい。
シルクは戸惑う表情のハルに構わず、首の後ろに両腕を回して抱きつく。
「ハルくん、消えないで! あなたがいなくなったら、どうなるの?」
雨のせいで、シルクが泣いているのかどうかは分からない。ただ、その悲痛な訴えがハルの心を今も痛く突き刺す。
見てほしいのは国ではない。僕自身なのだと……そう思ってしまう時点で神失格なのだと、ハルは愚かな自分を今も責める。
「僕は消える訳じゃない。聖樹の中で生き続ける。だから国の心配は……」
「そうじゃない! 私はどうなるの? 私はハルくんに生き続けてほしいの!」
国よりも自分の感情を優先するシルク自身も、女神失格だという自覚はある。でも今のシルクは女神ではなく人間なのだ。
シルクは国を救いたい。でも、それ以上にハルを救いたい。
(どうやって気持ちを伝えたらいいの?)
風に揺れるハルのピンクの髪も、ルビーのような赤い瞳も、全てが懐かしくて愛しいと思う。
ハルは、もしかしたら前世で愛した人なのかもしれない。でも今は関係ない。
前世に縛られたくないのに、恋を封じられたシルクには決して愛を口にできない。女神の魔法という名の呪いがシルクの言葉を封印し、心と感情を鎖で縛る。
(私、こんなにハルくんが……なのに……)
素直に好きだと、愛していると伝えられたら、どんなに楽で幸せだろうか。
女神が一人の神を愛してしまったら、全世界が滅びる。そんな女神の運命を呪い返したくなる。
シルクは意を決した。言葉で伝えられないのなら、それ以外の方法で伝えればいいのだと。
シルクはハルの赤い瞳と目を合わせると、そっと銀の瞳を閉じて……唇を重ね合わせた。