目次
ブックマーク
応援する
4
コメント
シェア
通報

第20話 桜の刻印

 スプリング国が春の景色を取り戻してから数日。

 朝になってシルクが自室の窓を開けると、今日も穏やかな晴天。

 異常気象も収まり季節は安定している。これでもう国が滅びる心配はないだろう。

 それなのにシルクの心は穏やかとは言えずに、今も何かが引っかかっている。


(これで終わりではない気がする)


 確かにスプリング国『だけ』は救われた。だが他国の異常気象と、滅んだシーズン国の現状は何も変わらない。

 これからどうするべきかの答えを求めて、女神シルクの日記を開いて続きを読んでみる。


(シーズン国を復活させるためには、春夏秋冬の4国の季節を安定させること……)


 予想通りの答えがそこに書かれていた。女神の願い『シーズン国の復活』を遂げるには、全世界を救う必要がある。

 そして、そのためには恋をしてはいけないという事も。


(一人の神だけを愛してはいけない。世界を救うために博愛を貫くこと……え? 博愛って?)


 シルクには具体的なイメージが湧かない。平等に愛情を注ぐという意味だろうかと解釈した。

 その時、部屋のドアがノックされた。勝手に入ってこないので、これはサクラだと分かる。


「はい、ぞうぞ」


 シルクの返事があってから、静かにドアを開けて入室したのは予想通りサクラだ。


「失礼いたします。ハル様が中庭でお待ちしております」

「中庭? うん、すぐ行く」


 同じ城にいるのに、なぜわざわざ中庭に呼び出すのだろうかと不思議に思った。

 ただサクラは何かを察しているのか、微笑して付け加えた。


「どうぞ、ごゆっくり。今日は良いお天気ですからね」





 シルクが中庭に出ると、以前とは違う風景に思わず息を呑む。

 以前は土のみだった地面には草花が生えていて、一面の緑の海の中心に桜の木が立っている。

 この桜の木は以前、無意識に発動したシルクの能力で蘇ったが、緑に囲まれた今は一段と生き生きとした力強さを感じる。

 そんな思い出の桜の木の前にはハルが立っていた。


「シルクちゃん」


 暖かい春風のような笑顔。桜の雨の下でピンクの髪を揺らして嬉しそうに振り向くハルは、まさしく桜の王子様。

 一歩一歩、ゆっくり彼の元へと近付いていくシルクの視線は、桜の木よりもハルに釘付けであった。

 ハルの前に着くとシルクは彼を見上げて、思ったままの言葉を伝える。


「この桜の木も聖樹みたい」

「ん? あ、そうだね。高さも太さも、ちょうど聖樹と同じくらいだね」


 きっとこの桜の木もハルの分身に違いない。だからこそハルは、この場所でシルクに伝えようと思った。


「シルクちゃん」


 改まって正面で向かい合うハルに笑顔はない。真剣な赤の瞳でシルクの銀の瞳を捉える。

 その時、シルクは直感で気付いた。だが、その胸によぎったのは期待ではなく恐れ。

 それはシルクにとって決して言われてはいけない、受け取ってはいけない、禁断の言葉であるから。


「僕と結婚してほしい」


 シルクの瞳が銀色の満月のように見開く。あまりにもストレートな求婚に、シルクが返事以外の言葉を返す余地などない。

 受けるか、受けないか。ハルが待つのも、シルクが言うべきなのも、その二択のみ。

 それを分かっているのに、あえてシルクは返事を避ける。


「私の能力が……欲しいから……?」


 ちがう、こんな事を言いたい訳じゃないのに……シルクは言葉をコントロールできない自分自身に戸惑う。

 確かにチェリーが言っていた事は気になっている。でもハルがそんなつもりで求婚するはずがない事も分かっている。それなのに……。

 真面目なハルは当然、心外でありそれを否定する。


「ちがう!! 確かにシルクちゃんがいれば国は平和だよ。それよりも僕は自分の幸せを満たしたい。そして君を幸せで満たしたい」


(だめ、ハルくん……それ以上は……)


「たとえ神失格でも、一人の男としてシルクちゃんが欲しい」


(お願い、もう言わないで……)


「信じてほしい。僕は本気で君を愛してる」


 愛という言葉を引き出してしまったシルクの心が罪悪感と共にドクンと高鳴る。それは嬉しいとか喜びの感情ではない。

 ハルの事は好きだという自覚はある。だが愛に変わってしまったら、それは女神の禁忌となる。

 その瞬間にシルクの脳裏に映された映像は、もう何度も見たシーズン国の廃墟。

 まるで戒めるかのように、女神の呪いがシルクの恋愛感情に歯止めをかける。


(なんで、こんな時に見せるの……やめて、やめて……もう見せないで!!)


 女神の記憶を振り払うように頭を振ると、桜の木の美しいピンク色が目に飛び込む。

 ……せっかく取り戻した、この美しいスプリング国の景色を失いたくない。

 シルクが戸惑っているのだと勘違いしたハルが、申し訳なさそうな顔をして付け加える。


「ごめんね、急すぎたよね。すぐに結婚とは言わない。まずは婚約してほしい」


 この国の季節はハルの心に影響される。求婚を拒絶すれば、間違いなくハルの心は激しく乱れる。

 だが求婚を受け入れて、ハルに愛を誓う事もできない。シルクがハルだけを愛し、ハルだけがシルクの愛を独占する事は許されない。

 女神が一人の神だけを愛してしまったら、国は滅びる。


(ハルくん、私、どうしたら……)


 シルクの返事は、全世界の運命を決める答えでもある。

 ハルの求婚を受け入れても、受け入れなくても、全世界は滅びる。

 だからシルクは、そのどちらも選ばない方法……もっとも過酷な選択をするしかなかった。


「……はい。婚約します」


 結婚はせずに、婚約だけを受け入れる。シルクが震える声で返したのは、確かな愛ではなく約束のみ。

 時が止まったように見つめ合う二人の世界の中で、舞い落ちる桜の花びらだけが止まらない現実の時を刻む。

 ようやくシルクの言葉を認識したハルの顔がパッと明るい笑顔に変わる。


「……本当に!? 嬉しいよ。ありがとう、シルクちゃん」

「うん。でも、時間を下さい……まだ誰にも言わないで」

「分かった、まだ婚約の公表はしない。婚礼はシルクちゃんの心の準備が整うまで待つよ」

「ありがとう」


 シルクは泣きたい気持ちを堪えて精一杯の作り笑いをした。ハルの優しさが余計に心を痛く突き刺す。この罪悪感こそがハルに対する本当の気持ちの証でもある。

 愛してくれたハルに、果たせない約束しか返せない自分を憎む。

 結婚を受けずに、婚約だけを受ける。未来も永遠もない偽りの約束は、あまりにも残酷で罪深い。

 求婚を断らずに、ハルの心の『安定』を維持させる方法は、これしかなかった。


「では婚約の儀式をするよ」

「儀式?」


 ハルは片膝を地面に突いて身を低くした。シルクに跪く体勢で見上げる。


「ハルの名のもとに、シルク様に愛を誓います。約束の証をここに」


 ハルはシルクの左手を取ると、手の甲に口付けを落とした。

 触れられた手の甲が温かい。それはハルの唇の熱だけではなく、不思議な力が伝導して手の甲が痺れるような刺激を伴う。痛くはないが、少しくすぐったい。

 ハルが唇を離すと、シルクの手の甲にはピンク色の花の紋章が刻まれていた。

 シルクは紋章で飾られた自分の手の甲を目の前で眺める。


「これは……桜のマーク?」


 シルクの白い肌の上に、5枚の花びらを広げた桜の紋章が美しく咲いている。

 ハルは立ち上がると、再びシルクの左手を取って自分の手の平に乗せる。二人の視線はシルクの手の甲にある。


「うん。これが婚約の証だよ。僕の愛の印だね」


 婚約の儀式とは、左手に婚約指輪ではなく、左手の甲に紋章を刻む。決して消えない愛の証は、決して逃れられない愛の束縛とも言える。

 桜の紋章は薄いピンク色で肌に馴染んで目立たないが、よく見れば誰でも気付くだろう。


「ふふ、僕ね、絶対に女神と結婚するって決めてたんだよ。ずっとシルクちゃんを待ってた。これは運命だよ」


 ハルの想いは純粋な愛。記憶を失っていても、過去に女神を愛したのかもしれない。だから彼は運命を信じる。

 心から嬉しそうな笑顔を向けるハルを見ても、笑い返せずにシルクの胸は痛むだけ。だから彼女は運命を呪う。


「シルクちゃん、好きだよ。愛してる。ずっとスプリング国で一緒に幸せになろうね」


 改めてハルはシルクに両腕を伸ばすと優しく抱きしめた。

 だが、シルクはハルの腕の中で……涙を流していた。ハルから見れば嬉し涙に見えたかもしれない。



 五度目の抱擁は温かくて愛に溢れていて……何よりも、哀しい触れ合いであった。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?