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第26話 夏の国の聖海

 シルクが部屋で女神の日記を読み続けていると、急に肌寒くなってきた。

 不思議に思って窓の方を見ると、すでに外が暗くなっている。


(もう夜……夏なのに日が暮れるのが早い)


 それに、この肌寒さ。昼と夜の寒暖差も異常気象の1つなのだろう。

 キャミソールとミニスカートで肩も足も露出しているシルクは、急激な温度の低下に身震いをする。

 それと同時に、シルクの部屋のドアが勢いよく開いた。この乱暴な開け方、そしてノックもせずに入ってくる人物といえば予想はできる。

 この部屋は広くないので、ベッドに寝転がったままでも出入り口のドアが見える。


「よぉ、シルク。なんだ、もう寝てるのか?」


 予想通り、何食わぬ顔で勝手に部屋に入ってきたのはナツだ。ハルもそうだったが、神というものはこうも平然と女性の部屋に入るものなのだろうか。

 シルクは日記を閉じて枕の横に置くと急いで起き上がった。ナツが正面から近付いてくると、別の意味で身構える。


(あ、服着てる)


 シルクが確認したのはナツの服装だ。昼間は海パン姿だったナツも、さすがに夜は寒いのか服を着ている。

 ワインレッドの上着に黒のズボンの貴族服。半裸だった昼間と比べると、きっちりと着込んだ紳士的な姿のギャップには、心ときめくものがある。

 ナツは片手に持っている衣服をシルクに差し出す。


「そんな格好じゃ寒いだろ、これ着ろ」

「……そんな格好にしたのは誰ですか」


 シルクは皮肉を込めて言うと、それを無表情で受け取る。

 その衣服を広げてみると、キャミソールと同色のオレンジのカーディガンであった。着てみるとニット素材で暖かい。

 それはそうと、ナツの目的がこれだけとは思えない。再びシルクは警戒しながら長身のナツを見上げる。


「サマー国の夜は寒いだろ? 安心しな、今からもっと熱くしてやるよ」


 これは間違いなく危険だ。しかし逃げ道はどこにもない。シルクが不自然に視線を泳がせていると、ナツが親指で出入り口のドアを指差した。


「行くぞ。メシだ」


 これは単に夕食のお誘いであった。





 ナツに連れてこられたのは、シルクの部屋と同じく城の2階にある食堂。

 ナツ専用の食堂らしく、飾り気のない部屋の真ん中に小さめの四角い木のテーブルが置かれている。すぐ横は厨房と繋がっている。

 椅子は2つ用意されていたので向かい合って座る。まだ食事は運ばれてきていないが、食欲を誘うスパイスの香りでメニューが何なのか分かる。


「美味しそうな香り。今日の夕飯はカレーね」

「お、正解! シルクのために今夜はご馳走を用意したぜ」


 楽しそうな笑顔で子供のようにワクワクして夕飯を待つナツは、無邪気で可愛らしい。

 女神に振る舞うご馳走に庶民的なカレーというのも変な話だが、夏の国では最高の贅沢なのだろう。

 ……だが、シルクは急に現実を思い出して切ない気持ちになる。笑顔とか贅沢とか言っても、今のサマー国は滅びの危機にあるはずだ。


(もしかして、ナツくんの命も、もう……)


 それを思うと、ナツの心の裏ではどんな苦悶を抱えているのか……彼の性格からして、きっと負の感情は表に出さないだろう。

 そんな悩みを吹き飛ばすように、厨房から出てきたコックが幸せな香りを漂わせるカレーを運んできた。


「夏野菜のカレーでございます」


 コックの男性はテーブルに二人分のカレー皿を置くと、お辞儀をして再び厨房へと立ち去る。

 シルクはカレー皿の料理を見て、まるでキラキラと輝く宝石箱のようだと思った。

 タマネギ、ナス、ピーマン、パプリカ、カボチャ……赤、緑、黄、色とりどりの夏野菜が宝石のように煌めいている。

 ご飯は山のように丸く盛られていて、カレーソースの真ん中にそびえ立っている。まるで海に浮かぶ孤島のようだ。


「見るもんじゃねえぞ、食え」

「うん、いただきます」


 見た目だけでなく、その美味しさに無感情のシルクも思わず笑顔になる。確かに少し辛めのカレーを食べていると体が熱くなってきた。

 無言でスプーンを口に運ぶシルクの手を見ていたナツが変な顔をしている。


「なんで手袋してるんだ?」

「え? こ、これは……ファッション」

「ふーん」


 確かに室内で日除けの手袋をしているのは不自然だが、シルクはハルとの婚約の証を隠し通すつもりでいる。

 婚約の公認は結婚と同然。その時点で博愛は不可能となり、世界を救えないのだから。

 ついカレーに夢中になっていたが、シルクはサマー国を救うために、まず現状を知る必要がある。差し障りのない程度に話を切り出す。


「ナツくんにも分身がいるの?」

「分身? なんだそれは」

「スプリング国のハルくんで言うと聖樹みたいな」

「あぁ、それな。はは! なるほど、確かに分身だ」


 ナツは明るく笑っているが事態は深刻なはず。ナツと生命を共有する運命共同体があるなら一緒に救うべきなのだ。スプリング国の聖樹のように。

 だがナツはそれには答えずに、スッと笑顔を消した。


「なぁ、なんで今日のメシをカレーにしたか分かるか?」

「え? なんで?」

「そのカレーがオレの分身だからだ」

「ええ!?」


 あまりにも真剣な顔で言うものだから、疑わずにシルクは食べるを手を止めてカレー皿に注目する。

 食べかけのカレーは、ご飯が山崩れのような状態でカレーソースの海に沈んでしまっている。


「食べちゃったけど……」


 シルクが真に受けて戸惑っていると、真顔だったナツが少し顔をほころばせた。

 すると突然、ナツが席を立ってテーブルから離れる。壁際の掃き出し窓まで行くと、窓ガラスをスライドさせて開ける。そしてシルクの方に振り返る。


「シルク、ちょっと外を見ろ」


 食事中になぜ……と思いつつも、シルクも席を立って窓へと歩く。

 ここは城の2階の食堂で、窓の外はバルコニーに繋がっている。正面にはガラスの手すりが設置されている。

 ナツとシルクは一緒に窓の外へと出て、手すりの前に並んで立つ。照明は設置されているが、暗くて遠くの景色までは見渡せない。

 ナツは見えるはずのない遥か先の闇を見つめながら呟いた。


「これがサマー国の異常気象だ」


 シルクは目を凝らしてみるが、正面に広がるのは果てしない海だけ。少し肌寒いが強風でもなく、どこが異常なのか分からない。

 するとナツの視線が正面から下方へと変わる。


「もっと下を見てみろ」


 シルクも視線を下に移動させると、バルコニーのすぐ下に海面が見える。よく見ると四方が海に囲まれていて、まるで海上の島に立っているようだ。

 シルクには何が起きたのか分からない。この城は海の上ではなく前に建っていたはず。


「え……ここって、海の上だった……?」

「いや。満ち潮だ」


 サマー国の海は夜になると潮が満ちて海面が上昇する。それは異常気象と共に年々高さが増していき、いずれは国の全てを飲み込むだろう。

 シルクは思い出した。城の1階には何もなく泥で汚れていたのは、この満ち潮のせいなのだと。

 なぜ、わざわざ危険な海の側に城が建っているのか。それを考えた時にシルクはナツの神としての『覚悟』に気が付いて言葉を失う。

 シルクが横のナツの顔を見上げると、ナツもシルクを見下ろして頷いた。


「この海こそがオレの分身。『聖海』だ」


 それはナツの大らかな性格らしく、あまりにもスケールが大きすぎる分身であった。

 ナツは、この海と運命を共にする。この城が沈めば、それはサマー国の終わりを意味する。

 それを承知の上で、ここに住み続けるのはナツだけではない。城で従事するベリーなども同じ覚悟なのだろう。

 思った以上に事態は深刻で切羽詰まっている。だからこそナツはシルクの能力を信じて疑わない。


「でもまぁ、シルクが来たから大丈夫だよな! さ、メシ食おうぜ」


 ナツは明るく笑うが、シルクは笑い返せない。せめて女神の能力が自由に使えたなら、こんな罪悪感を背負わなくて済んだのに。

 二人は再びテーブルに着席して食事を続ける。シルクは改めて食べかけのカレー皿を見るが、今度は宝石箱などには見えなかった。


 崩れ落ちてカレーの海に沈んだご飯の島は、まるで聖海とこの城を表しているように見えた。

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