身動きせずに固まるナツの片手をシルクが握る。
ナツとの触れ合いの第一歩として、シルクは『手を繋ぐ』を実行してみた。
この程度で女神の能力が発動するとは思えないが、方法を探っていくしかない。
そして、さらに上目遣いの『おねだり』が続く。
「私、初めてだから怖くて……少しずつ入れて?」
「お、おう……!? 任せろ……」
思わずナツの声が裏返る。シルクの言葉が変な意味にしか聞こえないからだ。
女性と遊ぶのは慣れているのに、女神からのアプローチに弱いのは意外なギャップであった。
当然、シルクは『海に入るのが初めて』という意味で言った。転生した時点が人生のスタートなら人生初となる。
ナツと手を繋いだまま、シルクは恐る恐る海水に片足を浸けてみる。
「えっ……温かい、温泉みたい。これも異常気象?」
「そりゃ、水温も体温も上がって当然だろ!」
「深刻ね」
シルクは単純に異常気象だと思ったが、この聖海はナツの分身。ナツが動揺しているせいで海水温が上昇しただけであった。
少しずつ海の深い所へと歩いていく途中も二人は手を離さない。ナツは胸板だけでなく手も逞しくて、握っていると安心感がある。
「ねえ、なんでこの水着を私に着せようと思ったの?」
「着たら能力が発動するかもしれないだろ」
「何それ。そんな訳ないでしょ」
少し前のシルクなら怒っていたのに、おかしくて笑ってしまった。
そういえばハルも同じような事を言っていた。『一緒に寝たら国が救われるかもしれない』と。神の発想はどこかズレているが憎めない。
やがて水深はシルクの腰まで浸かるくらいの深さになった。海水が温かいので温泉に入っている気分になる。
「ナツくん、どうしたの? さっきから元気ないみたい」
「……やばい、変な気分になってきた」
「え? のぼせたの? 大丈夫?」
この聖海がナツの分身という事は、シルクはナツの体内に腰を沈めている事と同然。そう思うとナツの妄想が加速する。
(女神が……シルクがオレの中に……やばい、萌える)
ナツの変態疑惑は本物かもしれない。シルクをさらに深い所へと沈めてやりたい、そんな欲望がナツをさらに燃え上がらせる。
「もっと深い所に行って泳ごうぜ。オレが支えてやるよ」
これは悪魔の誘い。泳げないであろうシルクの体を触ろうとする邪念である。いや、むしろシルクを聖海という名の自分に沈めて溺れさせたい。
……邪念に満ちたこの海は、もはや聖海ではなく魔海。
シルクに溺れているのはナツの方で、国の事など全く頭にない。この調子では何をしても女神の能力なんて発動しないだろう。
だがシルクは別の理由で困った顔をした。シルクは水着姿でも、手の甲の紋章を隠すための手袋をしている。泳いだら手袋が濡れてしまう。
「泳ぐのは、ちょっと……なんか湯気が立ってきたし、のぼせちゃう」
それとなく逃げたシルクだが、実際に海水が熱湯になってきた。これは興奮状態のナツの影響であり、異常気象は神の心次第だという証明でもある。
結局ナツは、自分が用意したビキニで自分の首を絞める結果となった。
そしてシルクも、良かれと思って着用したビキニが逆効果となってしまった。
(海の水温が下がらない……という事は、私の能力が発動しなかった)
ナツの邪な心を知らないシルクは残念に思った。
熱湯の湯気が霧のように立ち込めてきて、海は完全に温泉と化した。色んな意味でクールダウンが必要なので、二人は一緒に海から上がる。
のぼせ気味で体も頬も赤く火照らせているシルクの色香が、ナツを完全に落とした。純白の女神を夏色に焦がしたい欲望が止まらない。
「ねえ、砂浜で二人でできる遊びはないの?」
「ピッタリなのがあるぞ。スイカ割りだ」
「何それ?」
「サマー国の楽しい遊びだ。教えてやるよ。用意してやるから待ってろ」
シルクを砂浜に残して、ナツは一人で海とは逆の城に向かって裸足で歩いていく。
数分後、ナツは何やら丸い物や棒などを両手に抱えて砂浜に戻ってきた。
スイカ割りを知らないシルクは、何をしようとしているのか全く分からない。
「それってスイカ?」
「そうだ。スイカを棒で割るんだ」
ナツは砂の上にシートを敷いて、その上に大きな丸いスイカを置いた。シルクの顔よりも大きい立派なスイカだ。
「スイカを食べるなら包丁で切ればいいのに」
「これは棒で割るゲームなんだよ。ほら、やってみろ」
ナツが木の棒を差し出したので、シルクはそれを受け取る。長さとしては長傘くらいで重くはない。
さらにナツはシルクの背後に回る。手に持っていた白いタオルでシルクの目を覆い、頭の後ろで結んで目隠しをする。
「えっ? ナツくん、何するの? これじゃ何も見えないよ」
「そういうゲームだよ。オレが誘導するから、言う通りに動いてスイカを割るんだ」
「うん、分かった……でも怖い……」
目隠し状態のシルクは棒を両手で握ってはいるが、構えの形が取れない。
何も見えない視界の暗闇は『無』を連想させる。記憶と感情、そして祖国を失くしたシルクは無意識に『無』を恐れていた。
そんな『無』の中で、背中から温かい感触に包まれた。見えなくても分かる。ナツの広くて厚くて逞しい胸板に抱きしめられたという事を。
「ナツくん……」
「ほら、怖くないだろ? 棒を構えろ」
シルクの耳に触れそうなくらいに唇を近付けてナツが囁く。優しい声色が神経を心地よく刺激して心を誘導する。
背後から回されたナツの両手がシルクの両腕を滑るようになぞり、手首を通り過ぎて手の甲の上に重なる。
ナツがシルクの手の上から強く握りしめて、重ねた二人の手で一緒に木の棒を握って構える形になった。
シルクは手袋をしているが、それでもナツの手の熱は伝わる。ナツの熱に包まれた全身が溶けてしまいそうで余計に力が入らない。
(なんだろう……ナツくんに抱かれていると、すごく安心する)
シルクは視界を遮ってみて初めて気付いた。ハルとは違うナツの温もりの心地よさを。
夢で抱き合っていた顔の見えない相手、その人との温もりとはまた違う。それでもナツの温もりには愛しさを感じる。
このまま彼に体を預けたい。そんな感覚で体の力を抜こうとした、その時。
『……彼を愛しては、だめ!』
暗闇の中で、シルクだけに聞こえる声が響いた。女神の声は、恋に落ちそうになるシルクを何度でも戒める。
その声に反応したシルクの肩がビクッと跳ねて手の力が緩んだ。握っていた木の棒が手から離れて足元に落ちる。
「シルク!? どうした?」
シルクの異変に気付いたナツが後ろから強く抱いて支える。そのまま膝を折って座ると、ナツの膝の上にシルクが座る形になる。
ナツはシルクの腰に回した手は緩めない。シルクの首筋に顔を寄せて耳元で囁く。
「シルク、オレの女になれ」
一際大きい波の音に掻き消されて、その言葉はシルクの耳には届かない。
いや、本当は届いていた。言葉がなくても熱だけで心は伝わる。
「オレだけの女神になれよ」
それは世界を破滅へと導く悪魔の言葉だから……シルクは聞こえなかったふりをした。
結局、ナツがスイカを割って、それを二人で食べた。
だがシルクは、その時のスイカの味をよく覚えていない。
ただ、すごく『甘かった』という事だけは強く印象に残っている。