その日のサマー国の城は、朝から慌ただしかった。
シルクが起きて着替えようとすると突然、メイドのベリーが部屋に入ってきた。
「シルク様、おはようございます! 今日はこちらの服にお着替え下さい!」
ベリーから手渡された服は、いつものキャミソールのような薄着ではない。薄手の着物のようだ。
「これ、どうやって着るの?」
「あ、シルク様は浴衣を着るのは初めてですか! では、お手伝いしますね!」
ベリーに手伝ってもらって着替え終わると、シルクは全身を姿見に映してみる。
赤い下地にピンクの紫陽花が全身に咲き誇る浴衣は、純白のシルクを鮮やかに飾り引き立てる。
浴衣姿であっても、紋章を隠すためのベージュの手袋は今日も外さない。
「うわぁ~、シルク様、お似合いです! お美しいです! では髪を結いますね!」
ベリーは姿見の前に立つシルクの背後に立って、シルクの長い銀色の髪に触れる。
シルクの髪はストレートで、長さは腰の下あたりまである。触れるとサラサラとして銀色の光沢が美しい。
「シルク様の髪は、まさに絹糸ですねぇ~! はい、できました!」
「ありがとう。すごく可愛い結い方ね」
「三つ編みですよぉ! よくお似合いです!」
シルクの髪は、緩めのふんわりとした三つ編みで一本に束ねられた。
普段は髪を下ろしているので、首回りがスッキリとして涼しく感じる。三つ編みは夏の国に適した髪型でもある。
……と、浴衣と三つ編みで盛り上がってしまったが、シルクはふと疑問に思った。
「ねえ、なんでこんな格好を……」
「それでは、私はこれで失礼します!」
「あ、ちょっと……」
「頑張って下さいねぇ! ナツ様とラブラブになって、サマー国をお救い下さい!」
シルクの質問には答えずに、ベリーは言いたい事だけを言って勝手に退室した。最後の『ラブラブ』というのが気になる。
間髪入れずに、再びシルクの部屋のドアが乱暴に開いた。この開け方で誰なのかはすぐに分かる。
「入るぞ~!! シルク、準備はできたか?」
すでに入ってから言うセリフではないが、今日も朝から元気で陽気な夏の神・ナツ。
女子の部屋に勝手に入ってくる神様にはもう慣れている。神様とは、そういう種族なのだと思う事にした。
そんな事より、シルクはナツの服装に驚いた。
「ナツくんも浴衣着てる」
「おぅ! 似合うだろ? どうだ惚れるだろ?」
調子に乗るのも無理はない。実際、ナツの着ている赤紫の浴衣は似合い過ぎていて見惚れる。
無地で地味な色を選んだのは、一緒に歩くシルクを引き立てるためだろう。その大人の気遣いが心をくすぐる。
しかし、ナツはそれどころではない。シルクの浴衣姿の破壊力に呼吸と全身の機能が停止した。
ナツの視界に映るシルクの姿には、今では恋愛フィルターが上乗せされてキラキラと輝いて見える。
「シルク……可愛いな! あぁ、もう、本当に好きだ、大好きだ! 愛してるぜ、シルク!!」
ナツはシルクに対しての恋愛感情を隠さない。素直に愛を叫ぶが、それが本気なのかキャラなのかは判断できない。
シルクとしては、それを受け取る事も拒絶する事もできずに困ってしまう。
それは女神としての使命なのか、ハルに対しての罪悪感からなのか……左手の甲に隠された婚約の証を思い出す度に胸が痛む。
そんな事情など何も知らないナツは、シルクの浴衣姿を見つめて興奮状態に陥っている。
「女神の、うなじ……最高だな。キスしたくなってきたぞ」
「お断りします」
女神のうなじに誘発されるキスとは、どんな性癖なのか。これでナツの変態疑惑は確定だ。
「それで、なんでこんな格好をするの?」
「浴衣と言ったら祭りだろ! 今日は夏祭りに行くぞ!」
「夏祭り? サマー国って一年中夏でしょ?」
「そうだぞ、毎月やってる祭りだ。さぁ、行くぞ!」
ナツに手首を掴まれて、シルクは強引に部屋の外へと連れ出されてしまった。
(お祭りって……本当に遊んで暮らしてるみたいになってるけど)
ナツは国を救う事を忘れて、単にシルクと一緒に遊んで暮らしたいだけではないだろうか。
だが、サマー国の滅びが近いのは事実。そしてシルクもサマー国に長期間の滞在はできない。早くハルの所へ帰らないと心配だ。
ナツの城は海岸のすぐ前に建っているため、城下町が存在しない。本当に孤島のようだ。
夏祭りが開催される街は聖海を挟んだ向こう側、遥か遠くの陸地にあるらしい。
二人は今、移動用の小型のクルーザーに乗って対岸の港を目指している。
シルクは船に乗るのも初めてで、屋外のデッキに出て海の景色を眺めている。その隣で見守るようにしてナツが寄り添う。
シルクが見つめる海の先に、別の船が浮かんでいる様子が小さく見えた。
「あ、あそこにも船が……」
「あれは漁船だ。朝から漁に出られて漁師も喜んでるぞ。ありがとな」
「なんで私にお礼を言うの?」
「シルクのおかげだからな。こんなに波も気温も落ち着いてる日は久しぶりだ」
シルクに自覚はないが、確かに女神の能力によってサマー国の気象を安定させているようだ。だが夜になると満ち潮で陸が沈む異常気象は変わらない。
ナツや人々の暮らしを思うと、今はまだサマー国を離れる訳にはいかない。しかし同時に、スプリング国とハルの事も心配で放ってはおけない。
日々募る罪悪感と焦りによって、シルクはサマー国での暮らしを心からは楽しめずにいた。
「じゃあ、オレは反対側の海の様子も見てくるからな! 落ちないように気を付けろよ」
ナツはシルクから離れると、船の反対側のデッキへと向かって歩いて行った。
このクルーザーは単なる移動手段の船ではない。ナツは移動中も海の様子を見守って安全を確かめている。
この聖海はナツと命が繋がっている分身であり、何かあれば対処ができるようにと常に見張っている。
遊んでいるように見えて、ナツは常に神としての仕事を忘れてはいない。
(穏やかな海……ずっとこんな景色が続けばいいのに)
ふと、手すりに掴まっている自分の手が視界に入る。左手の手袋の下に隠された桜の紋章を思い出して、シルクの胸に切なさが蘇る。
一人になると、どうしてもハルの事を考えてしまう。その度に、やはりハルは特別な存在なのだと思い知らされる。
(ハルくん……会いたいな)
左手を口元の位置まで上げると、手の甲の手袋の上から口付けを落とす。それだけでハルと繋がっているような気持ちになれた。
その時、どこからか視線を感じてシルクは顔を上げる。それは殺気のような不穏な気配で、一瞬にして全身が強張る。
恐る恐る視線を横に移動させると、シルクが立つ手すりから数メートル横に離れた場所に女性が立っている。
(……誰? 初めて見る女性……)
その女性は白い肌で漆黒のドレスを纏い、長い黒髪を靡かせている。その容姿は夏の国の種族とは明らかに違う。
彼女はシルクと同じように両手で手すりに掴まって海を眺めていたが、やがて静かにシルクの方を向いて目を合わせる。
目が合った瞬間に、シルクの全身に衝撃が走る。
(え……私!?)
その女性は、まさに鏡に映したシルク自身。違うのは、『純白』のシルクに対して、あの女性は『漆黒』。
長い黒髪と闇色の瞳。漆黒のドレスに身を包んだ、『もう一人のシルク』であった。