目の前に、漆黒に染まった『もう一人の自分』がいる。
いや、そんな訳はない。自分にそっくりな他人に違いないと考えて、シルクは心を落ち着かせようとする。
「シールーク! 何見てんだよ」
「きゃっ!?」
ふいに背後からナツに抱きつかれて、シルクは声を上げて過剰な反応をしてしまった。焦ったナツが咄嗟にシルクから離れる。
「あ、悪い。そんなに驚くとは思わなかったぞ」
「ナツ、くん……」
シルクは後ろを振り返ってナツと目を合わせる。決してナツを拒絶したかった訳ではない。むしろ彼の太陽のような瞳を見ていると心強くて安心する。
緊張が解けたシルクは改めて横を向いてみるが、先ほどの女性の姿がない。目を逸らした一瞬の隙に消えてしまったかのように。
もしかしたら幻を見たのかもしれないが、あの女性の漆黒の瞳が脳裏に焼き付いて離れない。
シルクは不安に瞳を揺らしながら正面のナツに視線を戻す。
「ねぇ、この船に私以外の女性って乗ってる?」
「ん? いないぞ。オレとシルクと操縦士だけだ」
「でも私、長い黒髪の女性を見た気がしたの」
「サマー国に黒髪の奴はいないぞ」
確かにナツの言う通り、サマー国の種族の特徴は褐色肌で赤髪。神のナツも、側近のアラシも、メイドのベリーもそうであった。
改めてシルクは、さっきの女性の姿を思い出す。自分と同じ容姿で正反対の色。シルクが世界を救う純白の女神なら、その逆は……。
そう考えた時にシルクは強い胸騒ぎに襲われて、思わずナツの逞しい腕を掴んで訴える。
「ナツくん、引き返した方がいいかもしれない。危険かもしれない!」
「え、なんだ? 急に、どうしたんだよ?」
ナツがそれを理解するよりも早く、急に辺りが薄暗くなってきた。今いるデッキも海も空も、見渡す限りの景色が闇色に包まれる。
急激な天候の変化に警戒したナツは空を見上げる。空には灰色の雲が立ち込めていて、少しずつ雨も降り出した。
海面を見ると、明らかに水位が上がって波が荒れてきている。風も強まり、クルーザーの揺れ具合からも危険な状況だと分かる。
「ナツくん!? これって……どうしたの? ナツくん、大丈夫?」
「ちがう、これはオレの心の影響じゃない。分からねえ、なんで急に海が荒れるんだよ!」
国の気象は神の心に影響される。ナツの心の乱れによって気象も乱れたと思ってシルクは心配したのだが、そうではないようだ。
シルクは手すりに両手で掴まって揺れに耐えながらも、目を凝らして遠くの海を見る。点々と浮かぶ複数の漁船が今にも荒波に飲み込まれそうになっている。
遠くから見ている事しかできないシルクは、唇を噛み締めて非力で無力な自分を悔やむ。
(どうして、こんな時に私の能力は発動しないの!? 何のための女神なの!?)
そして同じくナツも、分身であるはずの聖海を制御できない自分に焦る。目を閉じて聖海に向けて強く念じるが、荒波は静まらない。
「海よ、静まれ、静まれよ……!! くそ、ダメか……!!」
そうしている間にも状況は悪化していく。遠くの海上で揺れている漁船、その上空には発達した積乱雲が蠢いている。
さらに、その雲と海面を縦に繋ぐ柱のように立ち昇る竜巻が発生した。それは稲光を伴いながら移動して漁船に迫っていく。
ナツは迫り来る竜巻に狙いを定めると、不安そうに海を眺めているシルクの隣に立つ。
「シルク。この船はもうすぐ港に着くから、先に行ってろ」
「え? ナツくんは……!?」
ナツは答えずに微笑んで、シルクの頭の上にポンと片手を置いた。そしてシルクから離れると今度はデッキの真ん中に立つ。
すると同時にナツの体を激しい風の渦が取り巻いていく。まさにナツ自身が竜巻となり空へと飛び立つ。
これは『夏魔法』で、主に移動手段として使われる。以前にアラシも使用していた魔法なので、シルクには見覚えがあった。
「ナツくん……!!」
シルクは、小さな竜巻となって巨大な竜巻に立ち向かっていくナツの姿を見守る事しかできない。
激しくなる雨を受けて濡れたシルクの頬を伝う雫は、涙なのかもしれない。
やがてナツの姿は炎を纏って赤い竜巻となる。夏魔法は主に炎系で、最大火力でぶつかって標的の竜巻を打ち消すつもりだろう。
(そんな、まさか、捨て身のつもりなの!?)
シルクは決してナツの力と強さを信じていない訳ではない。ナツの身を案じるのは別の意味もある。
普段のナツは明るく健康的なイメージで危機感を思わせないが、ナツの命は滅びゆくサマー国と共にあり、シンクロしている。
……つまり今、すでにナツの命は尽きかけている。ナツの命はもう長くはない状態。それは、スプリング国を救う前のハルと同じ。
たとえ魔法で強化しても本来の力は出せない。竜巻と衝突すれば、その衝撃でナツ自身も一緒に消し飛んでしまうだろう。
(やだ、ナツくん、消えないで……!!)
シルクは祈る気持ちで、無意識に胸の前で両手を組んで握りしめた。
その時なぜか、ふと左手の甲の紋章を思い出した。手袋の上から紋章を右手で包むと、目を閉じて思いを伝える。
(ハルくん、お願い。私に力を貸して……)
その願いに呼応したかのように、雨に濡れた左手の手袋の下から温もりを感じて目を開ける。
左手の甲に刻まれた、ハルとの婚約の証である『桜の紋章』が、温かく優しいピンク色の光を放っていた。