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第34話 春から夏へと

 ハルはシルクの左手を取る。その白い手の甲には、ピンク色の桜の紋章が花咲いている。

 シルクに刻んだ確かな愛の証を確認したハルは満足そうに微笑むと、そっと紋章に口付けを落とす。


「あっ……」


 シルクは思わず、自分でも恥ずかしくなるほどの甘美な声を上げてしまった。

 ハルの唇と接触している手から伝わる温もりが全身を巡って、全ての神経を支配する熱へと変わる。

 愛してはダメなのに、溺れてはダメなのに、体が熱以外の感覚を失って思考が麻痺する。


「ふふ、熱いでしょ? それは僕の愛だよ」


(ハルくん、だめ……)


 心では思っても、体は完全に支配されている。もしかすると婚約の紋章とは淫紋なのかもしれない。

 ハルが紋章に口付ける事で発動する効力が、シルクを縛り操る愛の鎖となる。

 シルクは無意識に手を伸ばしてハルの首に両腕を絡める。このまま引き寄せて口付けたい衝動に抗えない。


「シルクちゃん、愛してるよ」


 そんなハルの悪魔の言葉でさえ、今は愛しくて全てを受け入れたいと思う。やはりハルは運命の人なのかもしれない。

 女神は愛されても罪ではない。愛してしまったら罪となる。愛を返してしまったら世界は滅びる。


「ハルくん……私……」


 禁忌の言葉を言いかけて、今まさにハルの唇と重なろうとした、その瞬間。

 シルクの脳内で明るい太陽の閃光がパッと弾けて視界を埋め尽くした。

 そこに見えたのはナツの笑顔。それが消えて暗転すると、次には暗闇の中で黒髪の女神がシルクを見つめている。

 それは漆黒に染まったシルク自身の姿。光の宿っていない暗黒の瞳で、今もまたシルクを戒める。


「ハルくん、だめ!!」


 漆黒の女神の幻影を振り払うように、シルクは顔を背けてハルの体を両手で押し返す。

 突然の拒絶にハルはルビーの瞳を見開くが、彼の本質は優しい。強引に続けるような事はしない。

 シルクは体を起こすと、涙目になってハルに訴える。


「ごめんね、今はダメなの。ナツくんが大変なの、早く助けないと……」


 その言葉は当然、ハルの激情を引き起こす。シルクに拒まれた上に、他の男の名を出されたのだから。


「なんでナツの名前が出てくるんだよ!?」

「お願い、聞いて! ナツくんの命が危ないの。聖樹の花びらで治るかもしれなくて、だから!」

「……ナツが? それは本当に?」


 ハルは一瞬、何かを考えたが、感情的になっている今は受け入れる気にならない。


「だとしても、他の国に干渉はできないからね。僕は何もできない。ナツの事は知らないよ」

「ハルくんっ!!」


 思わずシルクは右手を振り上げるとハルの頬を叩いた。

 軽い力で痛くはないが、ハルは無感情のシルクがここまでの怒りを態度で示した事に衝撃を受けた。

 さっきまで涙で潤んでいたシルクの瞳が、今では凛と力強くハルを睨みつける。


「ハルくんは、自分の国だけが……自分だけが幸せなら、それでいいの!?」


 それは全世界を救いたいシルクにとっては当然の倫理。だが、愛に溺れる男でしかないハルには理屈など通らない。

 ハルはシルクを自分だけのものにしたい。それが結果的に他国の滅亡に繋がったとしても。

 だが、シルクの一撃でハルは冷静さを取り戻した。先ほどから自分はシルクを泣かせたり、困らせたり、怒らせたり……これでは幸せになんてなれない。

 ハルが答えずにいると、シルクがトドメの一撃を放った。


「そんな人とはもう、一緒に寝てあげないからね」


 まるで子供を相手にしているような言い方だが、それがハルの心に完全敗北の致命傷を負わせた。


「う……分かったよ。まぁ、ナツも悪い奴じゃないからね。助けてあげよう」

「ハルくん……!」


 パッとシルクの顔が明るい笑顔に変わる。『喜』の感情を取り戻しているシルクは以前よりも感情豊かになっている。

 つられてハルも笑顔になると、すぐに神らしい顔つきに変わった。


「聖樹の花びらは城に備蓄があるから、持って行っていいよ」

「ありがとう、ハルくん!」


 神や国民は他国に行けない。行けるのは、どの季節にも属さない純白の女神・シルクのみ。

 ハルにとってはシルクを再びナツの元へと行かせるのは不安で、待ち時間すら苦痛となる。


「でも約束してね。ナツを助けたら、すぐに帰ってくるんだよ」

「うん。約束する」


 ハルはシルクの心を疑ってはいない。シルクとは婚約を交わしていて、愛し合っているという確かな自信がある。

 問題はナツの方だけ。もしナツがシルクを帰さないのであれば、最悪は戦う事も考えている。

 ハルは一転して、そんな物騒な考えなど思わせない笑顔に切り替わる。


「じゃあ、シルクちゃん。今日はもう夜遅いから、一緒に寝よう」


「…………」


(だからハルくん、それどころじゃないんだってば)


 シルクとしては、今すぐに聖樹の花びらを持ってサマー国へと行きたい。

 ハルに悪気はないが、そろそろシルクも苛ついてしまう。スッとシルクの銀の瞳が冷たく凍る。


「朝は一人で起きれなくて、夜も一人で眠れないなんて、子供ですか? あなたは神様じゃなくて、お子様なのですか」

「うぅ……シルクちゃん、敬語が怖いよ……最近は早起きしてるよぉ……」


 サマー国での日々で『怒』の感情を取り戻しかけているシルクの叱りつけは、以前よりも凄みを増していた。

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