夏祭りから帰ってくると、シルクはすぐに自室のベッドに仰向けに倒れた。
ここ数日は日記を読む暇も、夢を見る余裕もなかった。そのせいか頭の中が真っ白にぼやけている。
……前世の女神は、肝心な時には何も語りかけてはこない。
浴衣姿のままで右手の手袋を外すと、そこには赤い太陽の紋章。
(私……ナツくんと婚約したんだ……)
ぼんやりと事実を認識するが、シルクの視線は目の前の紋章ではなく、遠い未来でもない。未知の世界にあった。
「シールークーッ!!」
「きゃあああっ!?」
なんとナツが突然、ベッドの上に勢いよくダイブしてきた。
仰向けのシルクは押しつぶされるかと思ったが、ナツは両手と両膝を突いて四つん這いになり、シルクの体には触れずに被さった。
シルクは、こんなに大声を上げたのは生まれて初めて……いや、転生して初めてだと思った。
「な、な、ナツくん! なんで、いきなり?」
「なんだ、まだ着替えてなかったのか」
そういうナツは、浴衣からラフな黒いシャツに着替えていた。そしてシルクの質問など聞いていない。
「あ~最高に可愛いな、オレのシルクは! 好きだ、大好きだ! 今すぐ抱きてえ!」
これは本物の夜這いかもしれない。ナツは元々、そういう危険な男である事を忘れていた。
しかし神様というものは、こうも気配もなく女子のベッドに現れるものなのだろうか。ハルもそうだが、まさに神出鬼没。
黙っていれば初夜に突入しそうなので、シルクは真顔になってナツの顔を見つめる。
「……ナツくん。お願いがあるの。聞いてくれる?」
「ん、なんだ? シルクの願いなら何でも聞くぞ」
もう、すっかりナツは、あらゆる意味でシルクに甘い。無条件で言う事を聞いてくれそうな勢いだ。
「婚約は、まだ誰にも言わないでほしいの」
「なんだ、そんな事か。別にいいぞ。なんなら国家機密にしてやるよ」
理由も聞かずに了承してくれたので、思わず拍子抜けする。
だが、次の要望はさすがにナツでも了承は難しいと思われる。シルクは恐る恐る最大の要望を伝える。
「私、他の国にも行きたいんだけど……いい?」
「いいぞ」
即答であっさりと許可するナツであった。ここまで何でも言いなりになると、本当にいいのか逆に心配になってくる。
シルクが一時的にサマー国を離れたとしても、ナツほどの心の強さがあれば季節の安定は保てるだろう。
それでも後々問題になっては困るので、シルクは念のため意思確認をしてみる。
「本当にいいの? 私、何しても構わないの?」
「あぁ。浮気以外なら何しても構わないぞ。まぁ、シルクがする訳ねえけどな!」
「…………」
シルクは理解してきた。ナツは単に言いなりなのではないし、細かい事を気にしないのではない。大らかな性格であり寛大。海のように心が広いのだと。
シルクの願いであれば無条件で何でも許す。それは都合が良いのだが、浮気ではなくても博愛だと知られた時が怖い気がする。
そう考えている間にも、ナツは仰向けのシルクに馬乗りの体勢になる。ナツの両手が器用にシルクの浴衣の帯を解いて緩めると、次は襟を掴んで少しずつ剥いでいく。
……まるで、今から皮を剥かれて食べられる果物になった感覚で、シルクの羞恥心を煽る。
「え、ちょっと、ナツくん、待って……」
「シルクが可愛すぎて無理だ」
このままでは本当に初夜を迎えてしまう。右手に焼き付けられた淫紋……いや紋章の効果なのか、抗えない発熱により体は流されていく。
シルクの白い両肩が完全に露出するまで脱がされたところで、シルクの銀色の瞳に光が戻った。
ナツの片腕の手首を両手で掴むと、無表情の眼光でナツを制する。
「待ちなさい。そういうのも、まだ待って下さい」
「う……? わ、分かった……」
女神の命令口調が効いた。さらに敬語口調の圧が加わって効果抜群である。珍しく怯んだナツは素直に起き上がって離れた。
それは、飼い犬に『待て』と命令したに等しい。もはやナツはシルクの下僕かもしれない。
かと思うと、シルクは甘えるような上目遣いでナツの視線と心を完全に支配していく。
「……明日、スプリング国に行きたいの。ハルくんにはお世話になったから」
「構わねえが、シーズン国まではアラシを同行させるからな」
「うん。ありがとう」
アラシは途中までの護衛役という事だろう。ここまでナツがシルクを自由にさせるのは、婚約という絶対的な愛の証と信頼があるから。
スプリング国へと行く事はその信頼を裏切る行為に思えて、シルクの胸が痛む。
「オレもハルには世話になったしな。よろしく伝えとけ」
ハルが恋敵とは知らずに、ナツは自分の命を助けるために聖樹の花びらを提供してくれた事に恩を感じている。
サクラとアラシの関係からも、スプリング国とサマー国は国交断絶していても比較的、友好的な関係であるという現状が見えてくる。
しかし残る2つの国、秋と冬の国との関係性が全く見えてこないのが不安に感じた。
その日の夜、シルクは夢を見た。
今では、見る夢の内容は全て『前世の女神の記憶を再生したシーン』だと認識できる。
ここは、どこかの山奥……だろうか。自分が立つ場所を取り囲む樹木の葉は緑ではなく、黄金や赤の紅葉。
この場所でシルクは今、誰かと抱き合っている。一番最初の夢で見た人ではない。ハルともナツとも違う。
(知らない温もり……あなたは……誰?)
シルクが顔を上げて、その男性の顔を確認しようとする。
暗転していく視界の中で最後に見えたのは、『彼』のオレンジの髪と黄色の瞳。そして……儚い微笑みであった。
朝を迎えると同時に、シルクは夢から覚めた。
同時刻、夢から覚めた『彼』は、ベッドから身を起こす。
オレンジ色の長めの前髪をかき上げると、ベッドサイドテーブルに置かれた眼鏡を手に取る。
レンズ越しであっても寝起きの思考と視界は、ぼやけたままでハッキリしない。
「また……あの夢ですか」
窓の外では、長雨と共に地に落ちる紅葉の葉が、深秋の哀愁を感じさせていた。