「あ、あのっ、それでしたらこちらの砂糖クリームがかかっているものはいかがですか? デザートのかわりに」
そう言ってクラリスは使っていないピックにドーナツを刺して差し出した。いつまでもそんなふうに照れられていると、クラリスの方が逆に顔を赤くしてしまう。
いきなり差し出されたドーナツに、キースは一瞬だけ躊躇するような仕草をした。
しかしそこからピクッと耳を動かすとすぐにクラリスへと向いて「では、遠慮なくいただきます」と言ってくれた。
「どうぞ、どうぞ。美味しいですよ」
キースの手に取りやすいようにさらに腕を出すと、キースはピックではなくクラリスの手をしっかりと握りしめた。
(なに……?)
頭も体も反応できないほど早く、キースはクラリスが手に持ったままのドーナツに齧りついた。クラリスの目の前でキースがドーナツを食べている。それもクラリスの手から。
驚いて反応できないクラリスを上目遣いで見るキース。その姿が彼の〝狼〟と重なってしまう。
(えっ、え、ええ……っ⁉)
「ごちそうさまでした。本当ですね、美味しかったです」
手を握ったままキースはそう言うと、舌を少しだけ出してぺろりと唇を舐めた。
普段のキースとは違う、なにかもの凄い色気と可愛らしさ。そんな一面を見てしまい、クラリスの頭の中と心臓はパニックだ。
(キース様が……こんな、こんなにも……)
胸がドキドキと音を立てる。クラリスはその音がキースに聞こえないように間を取ろうとしたが、逆に掴んだ手を引っ張られた。
その勢いで椅子から立ち上がると髪が頬にかかった。それを見てすぐにキースが指で直す。
クラリスは頬にあたるキースの長い指の感触にただただ気持ちがいっぱいになり、その後をどう過ごしたのか全くわからないまま屋台巡りは終わってしまった。
騎士団本部に戻ったキースはすぐに〝ベル〟を送った。
「すみません。近いうちにマダム・ローズリーのサロンから請求が届くと思いますが、支払いは自分でしますので放って……」
おいてください。と言う前に大きな声で邪魔が入った。
『もしもし、キース。君、マダム・ローズリーって……まさかドレスを送ったの⁉ うわぁあ!』
『ちょっと、ダメよ。キースはわたくしへ〝ベル〟を送ってくれているのだから、横から勝手に入ってこないでちょうだい』
キースの耳にキンキンとした言い合いが響く。
実家の養母に〝ベル〟を送ったつもりだったが、生憎と下の義兄が一緒にいたようだ。普段家に寄りつかないのにタイミングが悪かったなと考えているとさらなる追撃が来る。
『いや、まさかあのキースにこんな日がくるとはね』
「いや、そうでは……」
『ねえ、ねえ、キース。本当なのかしら? それならば早く家へ連れていらっしゃいな。それで、可愛らしい娘なのよね? あなたは昔から可愛らしいものが好きだったから絶対にそうでしょう?』
キースの話も聞かずに盛り上がり、好きなように言ってくるだけの向こう側を無視してキースは最初の要件だけあらためて伝えた。
「とにかくそのままにしておいてください。そのうち取りに行きますので」
『まあ、あなた。早く! キースが近いうちにお嫁さん候補を連れてくるのですって!』
『その日は前もって教えてほしいな。僕も一緒に歓待するよ』
これ以上話をしていても無駄だと悟ったキースは無理やり〝ベル〟を切った。向こう側で『あああ』と言う義父の声が聞こえたが容赦はしなかった。
(少しばかりあつくるしいな……いや皆温かい人なのはたしかなのだけれども)
キースは幼い頃に狼獣人の母と貴族の次男だった父を一度に亡くしてから、父の兄だった養父に引き取られ、養子として育てられた。
貴族子弟の集まりで
それでも養父母はキースを庇い、表だって攻撃してきた家系に対抗してまでキースを守った。そんなふうに実の父母と変わらぬ愛情を注いでくれる養父母実家のため、二度と迷惑をかけないようにとキースは獣人の力を極力抑え、魔法の力を磨き、自分を律してきた。
その甲斐あって、二十四歳にして騎士団の中隊長という地位に実力で上り詰めたのだ。
それが——。
(どうして彼女のことになると、こう自制が効かなくなってしまうのだろうか……)
今日のことにしても、ただ祖母の誕生パーティーにさえ着ていくためのドレスのないクラリスへドレスを用意してあげるだけのつもりだった。
それが可愛らしく装ったクラリスを見てつい欲が先走った。
街の散策へと誘ったのも、クラリスに喜んでほしいという感情と、自分が彼女と離れがたいという欲からだ。
小さなドーナツを美味しそうに齧る口元から覗く白い歯。あんなふうに自分もクラリスの首筋に……。そこまで考えゾクリと背中に何かが走った。
このままでは彼女に迷惑がかかると、何かにつけて横を向いた。けれどもそうしているとどこからともなくクラリスに惹かれている男たちの声が妙に耳に付いた。
『あの娘可愛くないか?』『めっちゃ可愛いしおとなしそう』『あーんだって、俺にやって!』
つい、その男たちを牽制しようとクラリスの手からドーナツを食べてやった。
まさかクラリスの方もそのままキースが食いつくとは思ってもみなかったのだろう。
驚き、慌て、そして真っ赤になった顔が、本当に可愛らしくてずっと見ていたいと思った。
始まりは確かにおかしな状況だったかもしれない。監視と護衛対象のクラリスに対して噛みつくという行為はあってはならないことだった。
それに対して責任を取るという気持ちは嘘ではない。ただ、今ではクラリスにそれ以上の気持ちが上回ってしまっただけ。
(イグノーが言う〝デプラ〟という香木が原因なのかもしれないが……自分がクラリス嬢をほしいと思う気持ちはもうそんなものとは関係ないのだろうな)
クラリスの手を掴んだ方の指に唇を当てていると、執務室の窓をするりとすり抜けて〝狐〟が飛び込んできた。
『やっほー、キース』
そしてキースの足元に体をすりつけ勝手に喋りだした。
「せめてこちらの許可を得てから会話を開始してください」
『ふふん。何のための動物型だよ。不思議だよね、獣人のパターンを組み入れただけでこんなに自由度が高くなるなんてさ。まあそれでもクラリス嬢とキースの場合は
のらりくらりと話しているが、アシュリーの言いたいことに見当は付いている。
「連れていきませんからね。それが聞きたいのでしょう?」
『ええー⁉ 母上も待っているよ。なんならもうすでに兄嫁さんと一緒になって部屋の準備まで執事に頼む勢いなのに』
「止めておいてください。アシュリー
それこそキースは最初、実家のレジエンダ公爵家でクラリスを保護してもらうつもりだった。それは勿論彼女に噛みついてしまったせめてものお詫びとして、クラリスが何の瑕疵もない貴族令嬢として社交場で認知してもらうところまで面倒をみることが責任の取り方だと思っていたからだ。
けれども、今になってはそんなことはどうでもいい。
それよりもクラリスには自分の側にいてほしい。そして彼女の思うとおりに楽しんでほしい。それを自分が全て与えてあげたい。
幸いにもクラリスも今はまだ騎士団で過ごすことを希望している。ならばわざわざ他所に行かなければいけない理由などない。
キースがきっぱりと断ると、仕方がないなあと嬉しそうにアシュリーが答えた。彼の〝狐〟も妙にくねくねと動き楽しそうだ。
『キースの
それだけ言い切って〝ベル〟を切った。
最後、お義兄様とは呼んでないのだが、と思いつつも、クラリスへの干渉がなければそれでいいとだけ考えキースは執務室から出た。