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第32話 過去の失態

 クラリスに会場で待っていてほしいと言われたキースは、渋々だが言うとおりグラスを片手に扉の向こうを見ていた。

 女性の身支度は時間がかかるものだからと、サロンでマダムやモーラに散々言い聞かされたが、こうして待っているとやはりついていけばよかったと思う。

 キースにはまだクラリスと踊った時の手のひらの熱さが余韻として残っている。

 ふわりふわりとドレスの裾をひるがえして一生懸命にステップを踏むクラリスの姿はまるで羽化したばかりの蝶のようだった。

 楽しそうにくるくると回り、上気で頬を赤らめたクラリスの表情を思い出す。

 キースの鼻腔をくすぐるクラリスの甘い香り。踊りきったとキースを見つめる潤んだ瞳にとらわれ、このままクラリスの首へ牙を当ててみたいという衝動を止めるのにどれだけの精神力が必要だっただろうか。

(ああ、このままクラリス嬢の手を取り、早くここから抜け出したい……!)

 グラスを持たない方の手をグッと握る。

(ここは、嫌になるほど臭い匂いでいっぱいだ)

 狼の半獣人であるキースの鼻は獣人の中でもトップクラスと言っていいほどの匂いに敏感だ。きつい香水と煙草の香りが充満するパーティー会場は、キースにとっては気分のいい場所ではない。できるだけ鼻を利かせないようにはするものの、周りをちょろちょろとうろつかれれば嫌でも鼻をつく。

 クラリスが化粧室へと向かうために会場から出て行くと、どこからともなく女性たちがキースの周りに寄ってきた。

 彼女たちはキースが騎士団中隊長ということを知っている者もいれば、知りはしないが様子からどこかの貴族かと思い近づいてくる者もいる。

 キースの美しい顔に惹かれ何かと声をかけ気を引こうとしてくるが、全く興味がない。むしろ邪魔だとさえ思う。素っ気ない態度であしらうも、なかなか周りから女性が離れていくことはなかった。   

 それを面白く思わない若い男の数人が、キースに近寄り声をかけてきた。

「やあ、君。初めて見る顔のようだが、どちらの家門か聞いてもいいかな?」

(家名を聞いてマウントでも取りたいというのか? バカらしい)

 派手な刺繍の上着の襟をこれみよがしにピンッと引っ張る姿が滑稽だ。一瞥して返事もしないキースに対し、そのうちの一人が皮肉たっぷりな声で言った。

「騎士団員なんだってね。どうせどこかの三男か四男ってとこだろう? 俺たちが社交のマナーってものを教えてあげよう」

 ニヤニヤと鼻で笑う男も無視していると、囲んでいる女性たちから小さな声が上がる。

「あら、あなた方キース様を知らないの? 騎士団でも銀灰の騎士って呼ばれるほど凄いお方なのに、ねえ」

「まあ、あの? 半獣人と聞いてはいてけれど、こんなにも美しい方だなんて知らなかったわ」

 ——本当に、ここにいらっしゃる誰よりも素敵よね。

 ひそひそと囁かれる声に、男たちのつまらなさそうなチッ、という舌打ちが混ざる。

 そこへ突然「はあっ⁉」と大きな声が割って入った。その場の皆が声のする方へと視線を移すと、仕立てのいい服に身を包んだ若い男がぷるぷると怒りに震えながら立っていた。

「……お前、養い子の獣か。くそっ、そうだろうっ!」

 勢いよくキースへとくってかかる姿に、周囲の女性たちは思わず後ろに引いていく。けれどもキース本人は一歩も動かずにあっさりと近づいた男の手をはたき落とした。

「……っ、この、野郎。あの時も、今日も……ふざけるな!」

「おい、落ち着けよ、レイモンド。何をそんなに怒っているんだ」

 バランスを崩し倒れそうになるところを仲間の一人が支える。それでも言い足りないとくってかかってきた、レイモンドと呼ばれた男にキースは冷ややかな声で応対した。

「ふざけているのはどちらだ。招待客がパーティーを台なしにするつもりか? それは元子爵夫人に失礼だろう」

 その言葉にレイモンドはさらに激高し近くのテーブルの上にあったワイングラスをたたき割った。

 ガシャンという音が会場の中に響き渡る。それが合図となり一斉に会場内の目がキースたちへと向けられた。

「いいか、俺のこの傷を見ろ! これはこいつがやったんだ! 幼い頃、こいつが、この獣人野郎が爪で俺を襲った時の傷だぞ。ほら、見てみろ!」

 そう言ってレイモンドは前髪を上げる。髪の生え際から頭の方へ、大きく引きつったような傷が痛々しくむき出しにされた。

 その傷を見てようやくキースはレイモンドという若い男が誰かというのを思い出した。

 養子となり初めて子ども同士の集まりに出席した時、獣人が高位貴族の集まりに出てくるなと、二人きりになったのを見計らい突然キースへ剣を向けてきた者だ。

『子供用の剣でも下手をすればケガをするから。早くしまった方がいいよ』

 キースは穏便に済ませようと、スピードにものをいわせて剣を奪い取った。

 しかし、その時に言われた暴言がキースの逆鱗に触れた。

『獣人は奴隷だ! 奴隷の親から生まれれば、貴族の子どもだろうが奴隷に決まっている!』

 奴隷を養子にするのなら公爵家とて——。

 レイモンドがその言葉を言い切る前に激高したキースは牙をむき出して威嚇し爪で彼の服を切り裂いた。驚いたレイモンドがひっくり返った時、頭を打ってできたのが今大勢の前で見せつけている傷だ。

 名家の伯爵家の子息を傷つけたことに関しては、たしかにキースに落ち度はあった。けれどもレイモンドの台詞をキースがあそこで遮ったからこそ守られた立場もある。

 あの日の出来事は痛み分けという形で終わり、何もなかったことになったはずだ。

 以後キースは社交の集まりに出ることなく、その後は騎士団へ入隊して貴族社会とは一線を画している。だからキースが貴族の養子だということを知るのは、ほんの一握りの者たちしかいない。

(それを自ら言いふらすなど、愚かにもほどがあるな。自分のことなど放っておけばいいものの)

 あまりにもバカらしい言いがかりに、キースは呆れて肩を竦める。

 その仕草を見た周りからは「まあ!」「そんな……」とキースを非難するような声が上がった。引き気味になり一歩後ろに下がる女性たち。

「キース様! いったい何があったのですか⁉」

 そこへドレスの間をかき分けてクラリスがキースの元へ戻ってきた。心配そうに顔色を青くするクラリスを、キースは自分の方へ守るように引き寄せた。

「どうやら何か誤解があったようです。ただ、元子爵夫人のご迷惑になっては申し訳ないので大事になる前にお暇しようかと思いますがいかがでしょう?」

 パーティーを楽しんでいるクラリスをまだ見ていたいという思いもあるが、これ以上キースがここにいることはクラリスへ嫌な思いをさせてしまうことにもなる。とはいえクラリスだけを置いて帰るつもりもない。

 キースの提案にクラリスは、ちらりと周りを見回してからコクンと頷く。そして「それでは私たちはお先に失礼させていただきます」と告げた。

 レイモンドはまだまだ言い足りないのか、キースの横に立つクラリスの顔を見てにやりと笑い手を差し出した。

「ふうん。なかなか美しい令嬢ではありませんか。そんな獣人なんかの隣にいるよりもこちらへいらっしゃったらいかがですか? 俺のようにその爪で引き裂かれたくないんならね」

 今までは黙ってレイモンドの戯れ言を聞き流していたキースだったが、その言葉だけは許すことができない。

 よりにもよってクラリスを、と思うのと同時に眼光鋭くレイモンドを睨みつけた。

 その場にいた者には〝銀灰〟の二つ名にふさわしい全てを燃やし尽くそうとするほどの青い炎が見えたかもしれない。レイモンドの仲間たちがのけぞるように一歩後ろに引いていく。

 自覚なく爪がギリリと音を立て伸びるのを感じた。

 が、その時キースの視界に小さく震えながら一歩前に飛び出すクラリスの姿があった。


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