ルバック伯爵邸の正面フロア。振り返ったクラリスへと少し引きつった笑顔を向けフランクが右手を差し出した。
「あの時は悪かったね。つい義憤に駆られて君に酷いことを言ってしまった」
その簡単な謝罪の言葉にクラリスは心底がっかりした。
これだけでもあのプライドの高いフランクからすれば精一杯の謝罪の言葉かもしれない。
しかしあの冤罪騒動がこの程度で全てなかったことになるはずがないことくらいわからないのだろうか。
クラリスが黙ってフランクの手を無視していると気分を害したのだろう。フランクはその手を大げさに上にあげてうんざりだというように振った。
「トリブラの件は誤解だったんだからもういいじゃないか。いつまでも怒っていることじゃないだろう」
「あれがただの誤解ですって? フランク様は本当にそう思われるのですか?」
クラリスが反論したことに驚きフランクは一瞬目を丸くした。しかしすぐに気を取り直したように答える。
「勿論、誤解だよ」
「私はそうは思っていません」
クラリスのはっきりとした言葉にフランクは、ムッと眉を寄せた。
「結果、僕も君も何の罪にも咎められなかった。それが答えだろう」
確かに一度公式見解として見間違いと出てしまったからにはクラリスの言い分だけでは通らない。むしろこれ以上この話を蒸し返してしまえば今度はクラリス側の私怨と取られてしまう可能性もありえる。
(トリブラの冤罪についてはもうフランク様を責めることはできない、けれども……)
黙り込んで下を向いたクラリスを見て、フンッと鼻を鳴らしたフランクは、ここぞとばかりに自分の言い訳を並び立てる。
「でもね、クラリス。婚約破棄の件については君も悪いんだよ。あの日も言ったように、君は研究と称して調合室にばかり引きこもっていただろう。それはビアンカのための魔法薬を作るという理由があることは理解しているさ。でも、だからといって社交をおろそかにしていいというわけじゃないことくらい考えなくてはならなかったんだ」
——ビアンカのため。それはずっとクラリスを黙らせるための魔法の言葉だった。
ビアンカの健康、願い事、そして幸せのためにはクラリスが我慢すれば全てが丸く収まるのだと。ルバック家の皆はそれさえ言えば、家族に愛されたい、必要とされたいと願うクラリスが何も言えなくなることを知っていた。
しかし、今のクラリスにはもうその魔法は通用しない。
王都でクラリスは自分が本当にしたいことをする自由を手に入れた。仕事も友人もできた。
そして、とても大切で大好きな人も——。
だから二度と彼らの言いなりにはならない。グッと足に力を入れ、顔を上げる。そしてフランクの目を見据えた。
「私は……。私を、社交からはじき出していたのは、あなた……たちですわフランク様」
「はあ?」
「フランク様、私たちは一度でもダンスをしたことがありましたか? 婚約していた時、練習でさえ相手をしてくださらなかったことを覚えていらっしゃいますか? 二人で庭を歩いたことも、ましてやエスコートされたこともないことを……フランク様は覚えてはいらっしゃらないのでしょうね、きっと」
クラリスの言葉を聞き、フランクは目を泳がせた。
「そ、れは……」
「両親も私を王都へ一度も連れていってはくれませんでした。社交界デビューをしていないのは私のせいですか? 貴族子女として人前にでたことがない私に対して、社交をおろそかにするもなにもないではありませんか」
ビアンカは治療のためという名目で何度も王都へ行っていたのに、という言葉は飲み込んだ。
「そ、そ……そんなことはクラリスとルバック伯爵が話をすることじゃないか。僕にそんなことを言われても困るね!」
それだけ吐き出すとフランクは足先を何度も踏みタンタンと音を鳴らす。これは苛立っている時にするフランクの癖だ。
(どうせ婚約破棄のことも、ご自分に全く非はないと思っておいでなのでしょうね)
変わらないフランクの姿にクラリスは溜め息をつく。いい加減彼と話しているのも疲れてきた。
しかしクラリスにはまだ他にもフランクとは話をしなければならないとても大事なことがある。〝お護り様〟のことだ。
「フランク様、あの、実は……」
クラリスが話を再開しようとしたところで後方から、キャッ! という小さな声がした。途端、フランクが慌ててクラリスの横をすり抜け駆けていく。
「大丈夫かい、ビアンカ⁉」
「何でもないわ。あっ、痛い……」
クラリスが振り向くと、階段の下でドレスの足元に手を当てるビアンカをフランクが支えていた。
「足首を捻ったのか? ああ、痛そうだ」
すぐにフランクはビアンカに自分の肩を貸した。
「そんなに慌てないでフランク。私は平気よ。それよりもお姉様とお話があるんでしょう?」
「ビアンカがケガをしたっていうのに放っておける訳がないじゃないか!」
「でも、お姉様が……フランクのこと、見つめているから」
目にうっすらと涙を浮かべながら儚げに首を傾けるビアンカ。フランクはそんなビアンカの頭をなだめるよう撫でると、クラリスをうとましそうな目つきで一瞥した。
「クラリス、君は妹がケガをしたというのに何にも気にもしないんだな」
「え、いえ……だって」
ビアンカはどう見ても一人で立っていられるほどだし、血色も悪くない。捻ったという瞬間は見ていないけれども、そもそもビアンカはクラリスと話している時にはすでに階段を下りかけていたところだった。
それを指摘する前にフランクは鼻を鳴らして「君は変わったね。いや、元々がそういう気質だったのかな」と吐き捨てた。
「僕にまだ用があるなら後にしてくれ。今はビアンカを早く部屋に運ばないといけないんだ」
「……ごめんなさいね、お姉様」
それだけ言うとフランクたちはビアンカの部屋へと戻っていってしまう。クラリスの目には、去り際に覗いたビアンカのピンク色の唇が小さく微笑んでいたように見えた。
「はぁ。まさか自分の部屋に入れないとは思わなかったわ」
ビアンカとフランクが去ってしまった後、正面フロアに一人残されてしまったクラリスは執事にうながされ一階にある客室へと案内された。
なぜかクラリスが使っていた二階の自室を使うことは許されず、通された客室はルバック邸の中でも一番小さく狭い部屋だった。
物置代わりとして使われていたその部屋は、北向きに小さな窓が一つあるだけの殺風景なもの。半地下にある物置がビアンカのために買い与えられた物でいっぱいになったため、比較的新しく買った物が置かれていたはずだ。今は中には数個の木箱、そしてベッドと文机だけが置いてあるだけだった。
(でもこれ……前まで私が使っていたベッドよね)
よく見れば文机の方もクラリスが自室で使っていたものだ。懐かしいという気持ちよりも先に、悲しさが込み上げてきた。
おそらくクラリスの元の部屋はビアンカのための新しい荷物置場となってしまったのだろう。
(お母様からの手紙には、騎士団から場所を移すようにとは書いてあったけれども、早く帰ってくるようにとは書いてはなかった……)
文机を指でなぞりながら、クラリスは今さらながら自分の居場所はもうここにはないのだと思い知らされていた。
ただそれでも、ルバック邸にある〝お護り様〟や領民のことだけは守りたい。ルバック伯爵家の娘として生まれ育ってきたクラリスの責任だ。
荷ほどきも着替えもせずにクラリスは考える。
夕食のテーブルに集まるだろう両親やビアンカ、そしてフランクたち全員に、どうやってそれをわかってもらえるか、ただそれだけを。