「えっ⁉」
「誰だ!」
思わず漏れ出た声を押さえるようにクラリスは口に手を置いた。しかしその小さな驚きの声はしっかりと聞かれてしまったようだ。
突き刺さるような声に、クラリスは慌てて踵を返しその場から少しでも離れられるように足を早めた。
(何? あの木を伐るって……〝お護り様〟を伐る? でも契約って……お父様も許してはいない、はずなのに……どうして?)
急ぎながらも頭の中でぐるぐると疑問符が浮かぶ。
ビアンカが言ったことが確かならば、今の会話はおそらくノーマン子爵の従者か同行してきた者のうちの誰かのものだ。
内容的にも父親であるルバック伯爵は〝お護り様〟を伐採することには、今は消極的らしいことがうかがえる。だからこそノーマン子爵側が強行突破してしまおうということなのだろうか。
クラリスはルバック伯爵の書斎がある二階に続く階段の下まで来ると足を止めた。
「それならば、今からお父様のところへ行ってこの話をすれば……」
貴族は体面を一番重視するものだ。田舎領地の貴族といえども当然ながらルバック伯爵もその体面を傷つけられるようなことは見過ごせないだろう。
契約を無視してことを進めるということは、正にそういうことだ。
裏を返せば契約さえしてしまえばそれが不当なことだとしても体面を気にして泣き寝入りをするということにもなるのだが。
そんなことになってはいけない。クラリスは意を決して階段の手すりを握った。
すると突然、頭にガツンという衝撃を受けた。
痛い。そう感じた時にはもうクラリスの膝は床に付き、そのまま倒れ込んでいた。
(……だ、れが……な、に?)
痛みに耐えきれず歪むクラリスの目に男物の革靴が映る。その革靴の主の顔を確認する前に、クラリスは意識を手放してしまった。
湿り気を帯びた籠もった空気。ほんのりと臭う黴臭さ。頬にあたる冷たく硬い感触。
そんな場所でクラリスは目を覚ますと、自分の腕が後ろに回され縛られ、床に転がされていることに気がついた。
不自由な体制ながらも天井近くの小さな窓から落ちるほのかな月明かりを頼りに周りを見回すと、どうやら自分が今いる場所がルバック邸の半地下の物置部屋らしいと理解した。
(けれども……あまりにも荷物が少なすぎるような気がするわ)
ビアンカが欲しがり、そしてすっかりと飽きてしまったもので埋め尽くされていた物置には、今は半分以下ほどの荷物しかないように見える。
(ビアンカは飽きて使わなくなったからといって、自分の物を簡単に人にあげたり捨てたりするような子ではないのに……なぜこれほど物がなくなっているの?)
そういえば一階の物置兼客室も物がほとんどなかった。いったいクラリスがいない間にルバック伯爵家では何があったのだろうか。
痛む頭に意識を持っていかれながらもクラリスは考える。
やはりビアンカやその侍女たちがここの状態を知るはずがない。もし知っていたら絶対に泣きながら訴えるはずだ。
クラリスは肩や足を動かして体に違和感がないか確かめる。殴られた頭以外で痛むところはないようだ。ということは、乱暴にここへ落とされたというわけでもないらしい。
(……この半地下の存在を知っていて、私をここへ運ぶことができる人。そのうえで、ここの荷物がほとんどなくなっていることに驚くことがない人。おそらくだけれども、その人というのは、きっと……)
「やあ。ようやく起きたのか、クラリス。ちょっと強く殴りすぎたかな。このまま起きないかと思ったよ」
「……フランク様。あなたでしたのね」
軽い足取りで階段を下りてくるフランクは、ぬけぬけとそんな台詞を吐きながら縛られているクラリスの元へ近づいてきた。その隣にはクラリスを案内した黒髪の侍女も一緒に付いてきている。
(この侍女が話していた相手……?)
「いったいどうしてこんなことを! 〝お護り様〟も伐ってしまうなどと言うし。この女性は誰なの? それに、ここの荷物だってっ、どこへ……」
「……やっぱり君は面倒くさいな、クラリス。質問は一つずつにしてくれないか。まあ全部繋がっているといえば言えるけれども」
フランクはクラリスの顔の前にしゃがむと悪びれもなく言う。そうしてクラリスの腕を掴んだ。後ろ手に縛られた腕を引っ張られて手首が痛む。それをぐっとこらえクラリスはなんとか話を続けようとする。
「つ……繋がっているとは、どういうことですか……どうか、教えて、くださいませ、フランク様」
苦しそうな顔で下手に出るクラリスの姿に気を良くしたのか、フランクは口の端を歪めて笑う。
「どう、って。全部、ビアンカのためさ。決まっているだろう」
「ビアンカのため……?」
フランクが何を言っているのかクラリスには全く理解できない。
そんなクラリスの腕をそのまま引っ張り上げて立たせると奥へ行けというように指さした。フランクの指図する通りに荷物の木箱が積み上げられた壁際の一角へと移動すると、背中を押されたクラリスはそのまま倒れ込んでしまった。
「っ……。なに? いったい何を、フランク様⁉」
倒れたクラリスを囲うように、フランクと侍女は木箱を動かし積み上げていく。一言も発することのない侍女はフランクよりも力が強いようで黙々と木箱を重ねる。
「今クラリスに出張られると困るんだよ。せっかく王都へ行ったんだから、そのまま戻ってこなければよかった。だから、わざと手紙も送らなかったというのに」
(手紙って? 私宛てに? フランク様が……。そういえば帰ってきた時にビアンカがそんなことを言っていたけれども……)
ますます意味がわからない。
なんとか壁を頼りに立ち上がるクラリス。その間にもどんどんと木箱はクラリスを囲いこんでいく。
「フランク様、待ってください! それは、私がいなければ〝お護り様〟をノーマン子爵へ売り渡すことができるからですか⁉」
あと一箱で完全にクラリスを隠すことができるというところで、侍女の手が止まった。
「ビアンカから聞きました。とても高く買って下さるということを。フランク様はお金が必要なのですか? だからこの物置の荷物も売ったのですか? ルバック伯爵家のものを勝手に、当主のお父様にも黙って?」
たたみかけるように話しかけると、フランクの顔色が段々と怒りで赤黒くなってくる。
「はっ⁉ 金がないのも、必要なのも、全部全部ビアンカのためだ! ビアンカが欲しいと言うものを全てプレゼントすると、僕は約束したのだからな。新しい宝石にドレス、王都で流行の靴に帽子。ビアンカが欲しいと言えば、王都まで人をやり何でも、そう何でも手に入れてあげたんだ!」
約束を守らないなんてありえない。そう豪語するフランクの目は妖しい光を帯びている。
「……え? まさか、そんな理由で……〝お護り様〟も売ろうと?」
あまりにも情けない理由でフランクがルバック伯爵家のものに手を付けようとしていることに、クラリスは呆気に取られてしまった。
ビアンカに熱を上げていたのは知っていたけれどもこれほどまでとは。
さすがにこれはいきすぎだ。
「そうだよ。破格の値段を付けてくれたんだ。あれだけあればビアンカが欲しがっていた王都のタウンハウスだって買える」
「そんな……。フランク様、それは騙されているのでは……」
ルバック伯爵領の領民にとっては価値のある木だが、いくら樹齢三百年とも言われていても〝お護り様〟一本でタウンハウスが買えるはずがない。
——例えば、それ以上の付加価値が付いているのであれば話は違うのだけれども。
頭の中に浮かんだその考えに、クラリスはゾッと背筋が寒くなる。
〝お護り様〟が〝デプラ〟の木だと知っていて、大金を払うというのならばそれは確実に使用目的が決まっているということになる。
目的は、獣人。彼らを自由に扱うため——。
「フランク様、聞いてください! 売ってはいけません。〝お護り様〟を伐っては、ダメです! あれは……」
〝デプラ〟の木の説明しようとしたところで、それまで黙ってただ木箱を積み上げていただけの侍女の手がクラリスの顔を強く押した。そのまま壁に体を打ちつけ倒れるクラリス。
じんじんと体が痺れ、頭がふらつく。また意識を飛ばしそうになるクラリスの耳に「行くよ」と、なぜかフランクを先導するような女の声が聞こえた気がした。