天井近くの小窓から落ちてきた朝の光でようやく目を覚ましたクラリス。三度も突き倒され、硬い床で一夜を明かしたせいで体中が痛い。少し体を動かすだけでもズキッと痛みが走る。後ろ手に縛られたままでは立つこともままならない。
しかしいつまでもこうして横になってばかりもいられない。
(なんとかこの半地下から抜け出してお父様とフランク様にノーマン子爵の企みを教えなければ)
クラリスは仕方がなく魔法に頼ることにした。生活魔法でも小さな火をつけることくらいはできる。ただそれは手首を縛っている縄を焼き切ると同時に自分の肌も焼くことになってしまう。
「でも、それくらいは我慢しなければ。……〝熾れ〟」
深呼吸をし、手首の縄に魔力を集中して火おこしの呪文を唱える。が、パッと一瞬熱くなったかと思うとすぐに消えてしまう。三度続けて試してみても同じで、クラリスの手首がチリッと痛みを負っただけだった。
「……魔法耐性付加の縄? そんな、ここまでするの?」
普通の縄の数十倍はするため、魔力を持っている者の少ないルバック伯爵領ではほぼ必要のないものだ。勿論所持していた覚えもない。
「どうしよう。このままでは〝お護り様〟を伐られてしまう。……どうしよう、獣人の皆や、キース様にまで迷惑がかかってしまったら」
〝デプラ〟の香木についての悪影響を思い出し、ブルッと体が震えてしまう。
どうにかしてこのことを伝えたいのにできない自分が情けなくて目に涙が滲む。
(こんなことならあの日騎士団を出る時に、ダイム様には話してくればよかった。イグノーさんが〝デプラ〟の木に心当たりがないかと問われた時に、答えていればよかった。それに……)
「キース様と、あの日、馬車の中で、ちゃんと話をしていればよかった……」
言葉に出してしまうと、ぼろぼろと流れ落ちる涙が止まらない。
公爵家の養子だからといって自分から壁を作ることなどなかった。キースが何度も声をかけようとしてくれた時に、しっかりと目を見返すべきだった。
(せめて、好きだとは言えなくても、もう少しの間キース様と一緒にいたかった……)
こみ上げる後悔とキースへの想いにクラリスは声を押し殺しながら涙を流し続ける。
クラリスの涙がようやく落ち着いた頃には日も少し高い位置になっていた。
泣きすぎてぐちゃぐちゃになった顔は目も当てられないだろう。をどうにかして拭こうと体を捻ったところ、腰に付けていた飾りが手に当たった。
「……これ、〝ベル〟だわ!」
そういえばこれだけは肌身離さず持っていた。
クラリスの魔力が少ないため、ここからキースのいる王都へと届かないのはわかっている。けれども、この〝ベル〟がクラリスのたった一筋の希望だ。
「〝音鈴〟出てきてちょうだい」
丁寧に魔力を注ぎ込み、声をかける。するとふわっとした毛玉の塊がころころっと転がりながらクラリスの顔へと近づいた。
くりっとした大きな瞳を見せて〝子リス〟はクラリスの涙の跡をペロリと舐めた。
「まあ! ふふ。……ありがとう」
クラリスの言葉に〝子リス〟はぴょこん、と跳ね上がり喜ぶ。そんな姿に張り詰めていた気持ちがほぐれてホッと息をついた。
昨日からずっと緊張し通しで、さらにこんな事態にまで巻き込まれたのだから情緒がおかしくなっても当然だ。
しかしやっぱりこのまま〝お護り様〟が伐られてしまうことを、指をくわえて見ているわけにはいかない。
「キース様たちのためにも、ここを出てどうにかしないと……」
そのためにはまず手首の縄を解かなければならないが、魔法耐性が付加されていているため非力なクラリスではどうしようもない。
何度も体を捻り手首を抜こうと動いていると、突然〝子リス〟がキュイッ、と鳴きクラリスの後ろへ回った。
すると、カシカシという音を立てながら〝子リス〟が手首にまとわりついて動いている。
「ねえ? あ、あの? もしかして……縄を齧ってくれているの?」
クラリスの問いに、もう一度キュイッ、と鳴くと、何度も何度も歯を立てて縄を齧っていく。〝ベル〟は魔法道具のはずだが、それでも齧るという物理的動作はどうやら魔法耐性には対応しないようだった。
(……でも、どうしてこんなことができるかしら? アシュリー様が作った特別な〝ベル〟だから?)
そもそも初めから不思議な行動が多かった。まるで人の言葉がわかっているようなことも一度や二度どころではない。
少なくとも今は〝子リス〟に頼るしかないクラリスは、頑張ってと目を閉じて祈った。
少しの間聞こえていたカシカシという縄を齧る音がしなくなったと同時に、手首に当たる毛の感触も消えてしまった。込めていたクラリスの魔力がなくなったということだろう。
クラリスが手首に力を入れながら動かしてみると、齧られたことで緩んだ縄をなんとか外すことができた。
元に戻った〝ベル〟を優しく拾いあげ、そっと唇を落とす。
「ありがとう」
そう微笑むとゆっくりと立ち上がった。
ズキズキと体中が痛む。けれどもクラリスは囲うように積み上げられた木箱を動かそうと力を入れた。しかしどれほど頑張ってみてもクラリスの力ではびくともしない。
それでもクラリスはハアハアと息を吐きながら何度も試す。
「ここから出なければ何にもならないわ。なんとか、なんとかしないと」
今度は体当たりをしてみたらどうか。そう考えていた時、カツカツ、と半地下の階段を下りてく音が聞こえた。
(フランク様……? 縄が外れたと知られたらまた縛られてしまうかも)
次はもっと頑丈なものにされてしまうと困る。クラリスは慌てて縄を取ると両手を後ろに隠して壁際に座った。
「ふん。起きたんだね。よく眠れたかい? ま、眠れるわきゃないか」
ガタガタと音を立てて木箱を一つ下ろして声をかけてきたのは昨夜フランクと一緒にいた侍女だった。クラリスが力を入れても全くなんともならなかった木箱をあっさりと動かすことのできる侍女はいったい何者なのだろうか?
不思議に思いながらこの侍女のすることを見つめている。そんなクラリスの視線などお構いなしに侍女は手に持ったパンを一つぽいっと囲いの中に投げ入れた。
「ほらよ、朝飯。あの男に持ってけって言われたから持ってきたけどね。這いつくばらなきゃ食えないと思うけどさ」
ケタケタと笑う侍女の顔をよく見ていると、彼女の瞳は昨夜よりも瞳孔が細くなっているように見えた。
(もしかして彼女も獣人なのかしら? だとしたら力が強いのも頷けるわ。……でも、確か〝お護り様〟の香りは苦手なはずなのだけれど)
ジッと見続けるクラリスの視線にようやく気がついた侍女は、フンッと鼻を鳴らすと「なに?」と口の端を上げた。
「……〝お護り様〟はどうなっていますか?」
この問いはおそらく彼女の気まぐれだろう。だとしたらいつ打ち切られるかわからない。いろいろと聞きたいことはあるが、クラリスはまずは一番確認したいことを尋ねた。
「ああ、あれねえ。もう伐っちゃった」
「なっ……!」
「うっそー! 生憎とまだだね。ここのヤツら集めて小遣い稼ぎさせてやろうとしたんだけど、
侍女の言葉にクラリスは大きく胸をなで下ろした。
(領民の皆さんが〝お護り様〟を伐ることを断ってくれたなんて……。よかった)
お守りを持つ風習は廃れてきているとはいえ、やはり〝お護り様〟への畏怖の念が消えてはいないことにひとまずはホッとした。
クラリスの安堵の顔を見て、侍女はそれを嘲笑う。
「でもまあ、明日にゃあたしらが雇った人足が来るからねえ」
「え……。そんな……それは、お父様の許可があって伐採するということなのですか⁉ ……それとも、フランク様、の?」
もしかしてクラリスがここへ閉じ込められている間に、父親を言いくるめて許可を取ってしまったのだろうか?
ドクン。心臓が嫌な跳ね上がりかたをした。
クラリスは恐る恐る尋ねると、侍女はニヤリと笑いながら当然のように言ってのけた。
「はっ、そんなもん必要ないだろ? 伐っちまったらあたしらはさっさとトンズラするだけさ。後のことなんて知ったこっちゃあないね」