キースとイグノー。そして一匹の〝狼〟がルバック伯爵邸へたどり着いたのは太陽の光でゆっくりと空の青さを取り戻した頃。結局二人はクラリスの〝子リス〟を見つけてから、予定のおよそ半分の時間で走りきった。
「なんっつーか、人の動きが少ねえな」
「普通の邸ならばすでに使用人が忙しく働いている時間のはずだが……」
使用人が当然するべき炊事の音がしないのはおかしい。
ルバック邸周りでは〝デプラ〟の木の香りが強すぎるため、キースは前回同様に鼻を布で覆っている。そのため匂いでは判別しづらい。
耳を澄まして邸内の音を拾おうとする。だが十数人の気配を拾うものの「金が」「女が」といった下卑た会話以外はほぼ聞こえない。
「こりゃ家ん中の住人全員が倒れているってことは……って、おいっ! 睨むなよ。ありえねえことでもねえだろうが」
「それもない、な。今は邸からあやしい匂いは感じられない。……無論、血のにおいも」
激しい嫌臭に耐え布の隙間から匂いを嗅いだ。さすがにこの中でも血のにおいならば判別はできる。最悪の状況でないことには安堵したものの、肝心のクラリスのにおいが判別できないことにキースは唇をギリッと噛んだ。
「そうか。なら……ん? おい、キース」
「ああ。新たに、来たな。足音は、十……五、か?」
音が近づくにつれわかることといえば、彼らが気性の荒そうな人足の集まりらしく、犯罪者あがりと思われるほどの
この伯爵家に似つかわしくない人足たちは、やはりクラリスが伝えてきた〝デプラ〟の伐採のために集められたのだろう。
彼らの動向をうかがい、耳を澄まし気配を感じ取る。
正面玄関に二人。そして邸の敷地を警戒するように四方にも二人ずつ配置されている。後方で十人がかたまっているのは、彼らが伐採運搬組なのだろう。
これで計二十人。残る一人は邸内で何かを物色し始めているようだ。
(あとは他に一人……確かに気配はするものの、これは……)
「一人だけ人じゃねえ。獣人だ」
イグノーがヴゥ、と低く唸った。キースも頷く。
イグノーのように鼻が潰れて利かないという事情がない限り、まともな獣人は〝デプラ〟には近寄ろうとしない。だとしたらまともでない獣人がこの状況でこの場にいる、ということだろう。
「少なくとも自分にとってヤツらは、クラリス嬢を害するものでしかない」
それがたとえ貴族であっても獣人であっても、誰であろうと同じことだ。
ここまできて〝デプラ〟を持って逃げられることは獣人にとっては危うい事態になりかねない。その香木は、獣人を思い通りにし廃人としてしまう効能があるのだから。
もしも〝デプラ〟が隣国グストレム王国へ渡ることになれば、きっと彼の国は獣人を使いアリアテーゼ王国へ戦争を仕掛けてくるだろう。すでにその予兆は耳に届いている。
(そちらの方はもう少し余裕があるかと思ったが……時間がないな)
キースは自身の腕に爪を立てて気持ちを落ち着かせる。クラリスを助け、〝デプラ〟を守るためにはここで一気にたたみかけ一網打尽にしなければならない。
(待っていてください、クラリス嬢。必ず、助けに行きます!)
イグノーはキースのアイコンタクトで音も立てずに邸裏へと向かう。
静かに「〝音鈴〟散れ」と、残りの〝狼〟たちを起動させると、三匹はキースの言葉通りに素早く三手に分かれて邸を囲うように待機した。
開始の合図は、伐採が始まる直前。意識が外から木へと向かった瞬間。
キースが素早いダッシュで〝狼〟と共に正面玄関へと躍り出た。するとすぐに気がついた二人組の男たちが動く。
一人はキースへ、もう一人は邸内へと動いたが、その時すでにキースの剣が男の脇腹を貫いた。それと同時に〝狼〟はもう一人の背中を切り裂く。倒れた男の背中に乗り上げると、遠吠えを響かせた。
ワウォーーーン!
響き渡る狼の声と共に一斉に動きだすイグノーたち。
屈強な男たちと争う音と怒号。邸の周りは一瞬に混乱の場と化した。イグノーがその巨体に似つかわしくない俊敏さをいかし一気に襲いかかる。
キースと〝狼〟は倒れた男たちをそのままに、邸内に走り込んだ。
突然の襲撃の音に驚くような気配が、いくつか二階の一角の方からする。しかしそれとは別のどこかでキースはクラリスの微かな気配を感じ取った。
(階上ではない。どこだ、クラリス嬢……⁉)
探していた。ずっと、会いたいと。
キースが公爵家の養子だと知った時のクラリスが、あまりにも戸惑いを見せて壁を作ったように感じてしまったから。だからクラリスが落ち着くまで自分の気持ちを押し付けないようにと少しだけ距離を置こうと思ったのが間違いだった。
こんなことになるのならばあの時、馬車の中で自分の気持ちを告げていれば。と、キースは酷く後悔した。
『助けて』と、キースに向かって言った言葉がもどかしくてたまらない。
クラリスの少ない魔力量で、どれほど注ぎ込んだのならあれほどの距離まで持ったのだろうか。
(二度と、あんな思いをさせたりはしない。愛しています。だから、もう一度自分を、呼んで——)
人の気配を感じていた応接室の扉を開けると、貴族の格好をした男が鎧飾りの大きな斧を持ってキースへと飛びかかってきた。
「〝爆炎〟——弾け」
その一言で火花が散り、鉄の塊である斧が赤く燃え上がり弾け飛んだ。それを握っていた手も一瞬の熱で腕まで熱傷が広がっている。
あうあう。と、痛みでもんどりうっている男にキースが「邸の者をどこへやった?」と問うと、一瞬邸の東側へ視線を送り目を伏せた。
キースはそのまま扉から飛び出し廊下を走る。
「クラリスー!!」
気がつけばキースは口元を覆っていた布をはぎ取り、感情を爆発させ、ただ彼女の名前を叫んでいた。
***
ワウォーーーン!
(え、もしかして、今のは……)
キースへの助けを願った直後、クラリスの耳に狼の遠吠えが聞こえた。
ルバック伯爵たちにも聞こえたようで、ピトーネたちのような強奪者たちだけでなく、狼まで領地に入り込んだのかと震えだす。
けれどもクラリスだけは違った。
(あれは……あの遠吠えは、キース様の〝狼〟……⁉)
それまでもクラリスは遠吠えを聞いたことがあったわけではない。いつもはクゥン、クゥンとクラリスに向かい甘える声を出したことしかない。
けれどもそう思った。ただの勘。しかし、それでも——。
(今しかないわ。あれがキース様の〝狼〟なのだとしたら、きっとみつけてくれる!)
「〝音鈴〟キース様の元へ、行って! ルバック邸の皆がここへ閉じ込められていると!」
一気に魔力を注ぐと握った〝ベル〟は〝子リス〟へと変化し一目散に走り出す。小さな体で家族たちの合間をすり抜け、あっという間に隙間から消えていった。
「……お願い。キース様、どうか。……どうか皆を助けてください!」
両手を合わせ膝をつき、家族や使用人たちが無事に助かることを祈るクラリス。
しかしそんなクラリスの姿を見てもなお、家族は誰もクラリスと同じように思うことはしなかった。むしろ全てクラリスのせいだと言わんばかりに声を荒げた。
「おい、クラリス! 今のはなんだっ! あんな魔法が使えたのなら、なぜもっと早く使わない。ノーマン子爵たちに助けを求められただろうに!」
「お父様、あれは魔法道具の〝ベル〟です。私の魔法では動物を動かすことは無理ですし、魔力ではそれほど長い時間は持ちません。それに……」
ノーマン子爵を信じているルバック伯爵には悪いが、おそらく子爵はピトーネの仲間だろう。だからこそこのタイミングで仕掛けてきたのだ。
「〝ベル〟ですって? あのような動きをとる魔法道具なんてありえませんわ」
「そうだよ、クラリス。あんな魔法道具なんて、この僕だって見たことがない」
口々にあり得ないと言い出す。
「……お姉様、嘘を吐いてまで皆の注目を浴びたかったのでしょう? だったら今のもこっそりと捕まえていたネズミをそれらしく見せただけではないのかしら」
「あ、そうか。あやうく騙されるところだったよ。やはりビアンカは賢いんだね」
クラリスを責め立て貶める家族の顔は歪み、こんな非常事態だというのにもかかわらず酷く楽しそうに見えてしまった。
わかっていた。
けれども、最後まで家族の愛を信じていたかった。けれども……。
(ああ、やっぱり。私のいる場所は、ここではないのね。私の、いる場所……いたいのは……)
——キース様のところ。
家族との決別の意思をかたくしたクラリスはゆっくりと立ち上がり彼らを見据えた。
「誰が何と言おうとも、私は嘘など言ったことはありません。あの〝ベル〟は、キース様……騎士団の中隊長様から下賜されたものですから」
一瞬躊躇したフランクだが、急に動きだしたクラリスがまだ何か隠しているのかもしれないと手を伸ばした。
「おい、クラリス。騎士団って、本当か? じゃあ……」
フランクの手がクラリスの肩を掴み揺さぶる。
「痛っ……やめてください、フランク様」
強く肩を掴まれた手を振りほどそうとして、クラリスは身を捻った拍子にふらつき倒れた。
その瞬間、ドガッと言う音と共に半地下の物置へ、大きく、切望するようにクラリスを呼ぶ声が響いた。