とある領内外れの森で、静かに、けれども素早く闇に溶けるような足取りで進む三つの影の内の一つがふと、後ろを振り返る。
視線の奥には先ほど闇夜に乗じてすり抜けてきた門が見える。いつもは静かな田舎領地も、今晩はブラックラー辺境伯家の兵が罪人護送のため駐留しているのでそこそこ賑わっているようだ。
「なに?」
小柄な影が少年のような声で聞くと、振り向いた女の影は小さな声でフフフと思いだし笑いを漏らす。
「んー。さすがはブラックラー辺境伯のとこの兵よね。つけいる隙がなさすぎて嫌になっちゃうわ」
途中で襲えたら楽だったのに。そう軽口を叩きながら手に持っていたナイフを投げると、トスンと音を立てて木に刺さった。
「仕方がないな。あの様子じゃこの先も当分無理そうだ。だから先回りしなきゃならないんだろう」
「そんなに急がなくたっていいわよ。どうせあたしらの方が早いんだしさ」
一番大きな男の影がムスッとした口調で先を急かす。しかし女の影はのらりくらりナイフの刺さった木に向かう。
「面倒だから僕は先に行かせてもらうよ」
小柄な影は少年特有の少し高めの声でそう言うと、その背中から自身の体よりも大きな羽をぶわっと伸ばした。
「おい! 待て、ユエット」
「やだあ。こんな森の中の夜道に仲間を置いていくつもり?」
ニヤニヤと笑う女と止める男の言葉を無視して羽の少年は大きく飛び上がる。そしてバタバタと羽を動かすと小さな声で何かを吐き捨てて飛んで行ってしまった。
「あーあ。見た目は可愛くても、ホント可愛くないわね。あの娘とは大違い」
「お前もいい加減にしろ。さっさと王都へ向かうぞ」
女の投げたナイフの切っ先には小さなネズミが刺さっていた。勢いよく抜くと体をピクピクと痙攣させながら地面に落ちる。
「残念。〝子リス〟ちゃんじゃなかった」
その女——ピトーネは黒く長い髪を掻き上げ、真っ赤な瞳を大きく開きながらペロリと出した舌で唇を舐めた。
***
「キース様、お待たせして申しわけありません。少し薬草の調べに時間がかかりすぎてしまいました」
「慌てなくても大丈夫ですよ。クラリス。自分もたった今訓練を終えて戻ってきたところですから」
クラリスが午前の調合を終えてぱたぱたと足音を立てキースのところへやってくると、すでにキースは執務室から出て扉の前で立っていた。
キースは今戻ってきたところと言うがそんなはずはない。訓練を終えたばかりというには騎士服に埃一つ付いていないし、むしろいつも以上に髪を念入りに整えているため、銀色の髪は輝き、キースの端整な顔立ちをいっそう際立たせている。
そんなキースの姿にクラリスは自分の姿を振り返り、そういえば着替えもせずに来てしまったと、気恥ずかしくなった。
「あ、あのっ、すみません。私、仕事したままで、着替えも……」
ただでさえ遅れてきてしまったうえに、ちゃんとした身支度もできていない。今から一緒に出掛けるキースに恥をかかせてしまうのではないかと心配になった。
しかしキースはクラリスの目を見つめて微笑む。
「大丈夫と言ったでしょう。クラリスはどんな時でも可愛らしいのですから」
「そんな……」
「本当のことです。特に頬を上気させながら急いでやってくる姿は花びらが舞い飛んでくるようでした」
「キース様、あの。もう、いいですから……」
歯の浮くような甘い台詞をさらっと口にするキース。
嬉しいとは思うけれど、それはさすがに言い過ぎだと思う。
違う意味で恥ずかしくなりクラリスは顔をぽっと赤らめた。
「とはいえ、いつまでも見ているだけというのも、せっかくの半休が勿体なくてもどかしく感じてしまいます」
今日クラリスとキースは二人揃って午後から休みを取った。特にキースにとっては久しぶりの休みとなる。
王都へ戻ってからというもの、通常任務に加え、護送されたルバック伯爵邸への襲撃者やフランクたちへの尋問協力のため自由になる時間がなかったのだ。
だからこうして二人っきりで会える時間はとても貴重で何物にも代えがたい。
キースはそっとクラリスの前に手を差し出す。
「ですから、そろそろ街へ向かいましょう。まずはお昼をごちそうさせてください」
「……はい!」
クラリスははにかみながらキースの大きな手を取った。
ルバック伯爵家での騒動の時、互いに好きだと伝え合ったクラリスとキースは、王都に戻ってからあらためて気持ちを確かめ合い、正式に恋人同士となった。
半獣人のキースだが、騎士団中隊長という職があるうえに、実は筆頭公爵であるレジエンダ公爵家の養子であったため、伯爵家の令嬢であるクラリスは身分の差を意識しないではない。
しかしこれからは自分の気持ちに正直になっていきたいと思うクラリスは、キースの想いも全部受け止めることに決めたのだった。
とはいえ今までの生活で大きく変わることは特にはない。
騎士団本部の三階の部屋を借りて住んでいるクラリスは、今まで通り本部の一室で魔法薬の調合や騎士団員の診察にいそしみ、相変わらずキースの〝狼〟は仕事中のクラリスの周りに侍っている。
勿論キース自身も時間を見つけてはクラリスのところへ顔を出してはいるが、ルバック伯爵邸での後始末のせいで以前よりも直接話をする時間は少ないくらいだった。
変化といえばただキースがクラリスのことを「クラリス嬢」から「クラリス」と呼ぶようになり、今まで以上に甘い空気が漂うようになったくらいだ。
そしてキースがクラリスの首に求婚行動の甘噛みをしたことは、騎士団本部内では誰もが知る事実であっただけに、『むしろはっきりと二人が恋人同士になったということがわかって良かった』と騎士団員の多くの者が二人のことを生暖かく見守っている。
キースのエスコートで久しぶりに街へ出てきたクラリスは、いつになく浮かれていた。
前回はただただ圧倒されていた賑やかな人波の中で、自分が当たり前のようにいられることが嬉しい。
お昼に何が食べたいかとキースに問われた時に、マダム・ローズリーのサロンでドレスを頼んだ帰りにキースと食べた揚げドーナツを食べたいと言ったのもそのせいだったかもしれない。
「どこかのお店に入ることもできますが」
あの時とは違い、昼になったばかりなのでどこの店も開いている。屋台の軽食で済ませなくても十分に時間もある。
しかしクラリスはにっこりと笑って答えた。
「いいえ。あのドーナツが食べたいのです。とても美味しかったものですから」
キースは少し考えたフリをしてからクラリスの目を見る。
「またクラリスのドーナツをいただけるのなら、それもいいですね」
「えっ、あ……いえ、キース様?」
クラリスは自身の手からドーナツを食べたキースの顔を思い出す。ペロリと唇を舐めたキースの舌がやけに色っぽかった。
クラリスがどぎまぎしていると、その耳元でそっとキースが囁く。
「それとも、今度は自分が『あーん』としましょうか?」
「キ、キ、キース様っ!」
からかわないでください! と、顔を真っ赤にしてクラリスが怒るのをキースは、それは嬉しそうになだめた。
結局、クラリスとキースは屋台で見かけた薄いパン生地に野菜や肉の具を巻いたものを買いベンチに座って食べることにした。上手に作るものだと感動してしまい、つい注文してしまった。
クラリスにとっては初めて食べるもので、直接齧りつくことに悪戦苦闘していたが、少しずつ口に入れることでなんとか食べ進めることができた。
その間にもキースは一緒に買った肉揚げやバター芋もあっという間に食べ尽くしていた。
「キース様、食べるのがお早いのですね。私も見習わなくては」
キースの食事量と速さに感心したクラリスは、頑張らなければと次の一口を食べるために今までで一番大きく口を開けた。
その姿も可愛らしいと思うキースだが、急がせたいわけではない。自分のペースで食べるように優しく声をかけた。
「騎士は皆こんなものです。が、クラリスはどうぞそのままでいてください」
すると——。
「……クラリス? まあ、本当にクラリスだわ。あなた、久しぶりね」
二人のベンチの後ろ側からクラリスを呼ぶ声がした。