洞穴の中では、宴のような雰囲気になっていた。洞穴の外で鳴り響く大きな雨音と風を掻き消すように、皆で騒いでいる。
「しーっ、赤ちゃんが寝てるでしょ」
マーサや他の女衆が男衆を注意するが、騒ぎが収まる気配は無い。さっきまで僕とキシリアがやり合っていた時によく口を挟まなかった物だとアルトは感心した。
「はぁ……キシリアさん、頼んでもいいですか?」
マーサはあきれ果てた顔でキシリアへとお願いをする。それで彼は「いいよ、なんせ王子の家族のことだしね」と言った。
「あの、前から思っていたんですが、なんで王子なんですか?」アルトは疑問を口にした。
「ふふ、君を王子にした方が皆がまとまるからだよ」
キシリアの話は要領を得ないが、アルトが王子で居た方が都合がいいのだということだけはわかった。それならば、それを甘んじて受け入れようとアルトは考えた。
「さて、皆──そろそろ大人しくしたらどうだい?」
小さく声を出したはずなのに、キシリアの声は男衆騒ぎによる音を掻い潜ってアルトの耳へとするりと入ってきた。ぞわっと背筋に冷たい物が走る。
──なんだ、今の感覚?
得体の知れない物を感じてしまった。けど、キシリアが何かをしたようにも感じられない、これは一体……。
キシリアの顔をじっと見ていると、アルトの視線に気付いたのか薄っすらと笑みを浮かべる。
「何をしたのか気になるって顔だね」
「はい、やっぱり何か秘密があるんですよね?」
「あるけど、そのうち勉強で教えるからその時に。今はまだ時じゃないからね」
キシリアはそう言って、アルトから目線を外した。目は子供の方へと向けられている。
「マーサ、そろそろ布を取り換える時間が来そうだ、奥に行った方がいい」
「はい、それじゃあ行ってきますね」
マーサが立ち上がり、洞穴の奥へと向かう。じっとその姿を見ていると、キシリアが「なにしてるんだい、君も行くんだよ」と促して来た。
「え、僕もですか?」
「当たり前だよ。これからあの子の世話を誰がするんだい? ここに居させると言ったからには自分でも面倒を見なくては、それが命の責任を負うということだからね」
「……はい」
そうだ、とアルトは思った。僕が無理を頼んであの子をここに居させてもらっているんだ。それなのに周りにばかり頼っているわけにはいかない。僕が一番積極的に関わっていかなければ。と、アルトは気を引き締める。
「わかりました。気付かせてくれてありがとうございます」
「うんうん、あの子をずっと見てろとは言わないさ。でもね、君は命を生かすという意味を体験しておくべきだ。それで得られる強さもある」
キシリアはまたアルトにわからないことを言っている。アルトはとりあえず、あの子の面倒の面倒を見た方がいいというのだけは理解した。
「とりあえず、あの子をしっかりと育てろということですね?」
「うん、そうだね。今はその認識でいいよ」
アルトの答えに満足したのかキシリアは穏やかな顔で頷いた後、目と口を開き「あ」と言った。
「どうかしました?」
「うん、大事なことを思い出した。あの子に名前を付けてあげなきゃ」
「あっ……」
キシリアに言われてアルトも気付く。あの子は名無き。この世界にいる為の名前を授かっていない。だから、赤ん坊のことをあの子としか呼べていない。
「どうしましょうか?」
「アルト、君が付けるんだ」
「僕が!?」あまりの驚きに思わずアルトの声は裏返った。アルトの名前を付けてくれたのはキシリアだ。てっきり今回もキシリアが付けてくれる物だとアルトはそう考えていた。
「そうだ、君が
「ぐぅっ!」
キシリアは責任という言葉を強調してきた。そう言われると返す言葉も無い。名前、名前か……あの子に合う名前なんて思い付くだろうか? アルトは首を捻る。
──あぁああぁぁ!
洞穴の奥から子供の声が聞こえて来る。それで、アルトはそっちに気をとられた。
「ほら、行った行った。頑張って覚えるんだよ」
「はい、色々と頑張りますよ」
アルトはキシリアにそう言い残し、洞穴の奥へと向かった。
ぴちゃり、と洞穴の奥から水が池に落ちる音が聞こえてくる。アルトはこの洞穴の最奥まで行ったことがない。君にはまだ早い、ときつく言い聞かされてきたからだ。
最初の方は気になっていたが、時が経つにつれて気にならなくなった。キシリアがそこまで言うのならば、本当に行かない方がいいのだろうと身に染みるようなことを数多く体験してきたからだ。
「こうなっているんだな……」
洞窟の中程では、仄かに光る石があちこちに敷き詰められていた。そのお陰で灯りが無くてもアルトの目でそれなりには見える。
「アルトちゃん、こっちこっち」
マーサの声の方へと向かうと、子供が柔らかな布の上で寝かされていた。洞穴は大きな石などがごろごろ転がっている。そんな場所に子供を寝かせるのならそれ相応の配慮が必要というわけか。
アルトがマーサの横に立つと、マーサは「よく見ててくださいね」と言いながら子供を拭いたりしながら綺麗にしていった。そして、布の包み方を見ながらアルトはふむふむ頷く。初めて見るからか、マーサが凄い手際よくやっているようにしか見えない。
「はい、これで終わり。わかった?」
「……なんとか」
うん、これなら出来そうだ。忘れないように二回か三回程復習をしたい気がするけど言うのがなんとなく恥ずかしい。家に帰ってから練習させてもらうとしよう。
「よし、戻りましょうか」
「そうだね、教えてくれてありがとう……あ」
そこまで言った時、アルトはふとしなければいけないことを思い出した。
「マーサはこの子に名前を付けるならなんて名前にする?」
「名前?」
「うん、長から考えろって言われてさ」
一人で考えてみた物の、ピンとくる名前は思い付かなかった。なぜこんなにも名前を考えるのに苦労しているのだろうと思って分析してみたが、結果は出ないままだ。
「なら、私から何か言うのはダメだね」
「なんで!?」
「だって、私の言った名前に引っ張られるでしょ? アルトちゃんがこの名前だって思う名前でいいのよ」
マーサは「ふふふ」と笑いながら、アルトに近づいてくる。なんだろう? と思っているとマーサは「アルトちゃん、手を出して?」と言ってくる。
「なに? うわっ!」
言われた通りに手を広げると、マーサがアルトの腕に子供を渡してくる。ずしりとした重たさと人の温かさがアルトの体に伝わってくる。
子供の顔を見てみると、アルトの腕の中で嬉しそうな笑みを浮かべていた。その顔を見ているとアルトの心の中がじんわりと温かくなっていくような気がする。
「その子を抱いて考えたらいい案が思い浮かぶんじゃない? じゃあ先に戻ってるね」
そう言いながら皆の元へとマーサは戻っていく。アルトは子供を落とさないようにゆっくりと皆のところへと戻り始めた。
「ばー」
子供が嬉しそうに声を上げている。何がそんなに嬉しいのだろうか?
「どうしたの?」
何が言いたいのかさっぱりわからないが、アルトは子供に話掛けていた。子供は意味があるのかないのかわからない声をあげている。
「なー」
「うーん、何を言っているかわからないや」
きゃっきゃと子供は笑っている。それを見ているだけでこの子が生きていることにアルトは喜びを感じた。あの時、アルトがキシリアの言うことを聞いていたらどうなっていたのかと考えてぶるりと体を震わせた。
「ぶー!」
「ああ、ごめんごめん……って、僕の気持ちがわかったの?」
子供が不服そうな声を上げたのでアルトは驚いた。もしかして、自分が嫌な想像をしてしまったことを感じ取ったのだろうか? と思ってから苦笑いを浮かべた。
「はは……そんなわけないか」
「だー!」
子供の手がアルトの頬を撫でている。それは、アルトのことを慰めてくれているようにも見えた。
「君の名前を決めなきゃいけないんだってさ。何がいいと思う?」
「なーなー」
「なーなー、ナナか。でもなぁ、どうしてもナナキをイメージしちゃうしなぁ」
「なー!」
その時、アルトの頭の中にいい名前が思い付いた。その名前は──
「サナなんてどう!?」
アルトは興奮気味に名前を伝える。──その言葉に、子供は満面の笑みを浮かべてくれた。
†
「お、戻ってきたね。どうだい、覚えることは出来たかい?」
「はい、なんとか」
「ん、その顔は……何か良い事でもあったかい?」
キシリアはアルトの顔をマジマジと見つめながらそう聞いてくる。キシリアの言葉にアルトは少しだけぎょっとなってしまった。この人は、本当に人の心を読んでくる。
もっと、溜めてから言いたかったのに、これでは台無しではないか。
「そうですね、この子の名前が決まったんです」
不貞腐れているのは自分でもわかった。それでも、キシリアに気付かれてしまったのは残念だから仕方がない。キシリアも、アルトの態度に気付いたのか「ああ、ごめん」と言った。
「ついついやってしまった。人の心を読むのが癖になっててね。で、どんな名前になったんだい?」
「……サナです」
どんな癖なんだ。アルトは心の中で悪態を吐きながら、子供の名前を口にした。すると、キシリアは少しだけ固まり「さ、な?」と聞き返してくる。
「はい、何かいけませんでしたか?」
「……いいや。ただ、偶然があるもんだなぁと思ってね」
アルトはキシリアの言葉に首を傾げる。この人のいうことがよくわからない。
「本当になんでもないよ。そうかサナか、いい名前だね」
「だってさ、サナよかったな!」
アルトの言葉にサナは笑顔を浮かべていた。こうしてサナのことをずっと見ていたいという気持ちになってしまいそうになる。
「うん、サナも君によく懐いているようだ。これなら大丈夫そうだね」
「よかったね、アルトちゃん」
「うん!」
「今日はアルト様の家族が増えた祝いをせねば!」
オビタが突然そんなことを言い始める。その手を握り締め、空に向けて突き上げている。その声に、男衆達は皆ざわめき立った。
そうだそうだと、周りで声が上がっていく。キシリアをちらりと見ると穏やかな笑みを浮かべていた。どうやら、その案に賛成のようだ。
「そうだ、オビタ。一つ頼めるかい?」
「はい、長様なんなりと!」
「じゃあ、こっちに来てちょっと耳を貸して」
キシリアに言われるままオビタはその耳を長に向け、キシリアは小声でオビタに何かを伝えた。アルトには一切聞こえてこない。もしかすると、あの変な声を使っているのかもしれない。
「なるほど、それを作ればいいのですね!」
「ああ、しーっ、しーっ。うん、頼んだよ」
キシリアは隠しごとにしたいようだったが、オビタには通用しなかったようだ。何かをオビタに作ってもらうというのだけはわかった。
オビタはこの島で一番器用な猿人だ。海で狩りをするのも、布を編むのも全てオビタに任せておけばいい。だからキシリアは大事な物を作る時にはオビタに頼んでいる。
それで、何を頼んだかだけど……ん、頭が回らないな……。
ふわぁ、とアルトの口から無意識に息が漏れた。アルトの目蓋がどんどんと重くなり目が塞がってくる。目を擦るが、目蓋は上に上がらない。
「今日は疲れただろ。サナのことは見ておくから眠りなさい」
「ありがとう、ございます」
「ほれアルト。ここに来い」
ウルズがアルトのことを呼んでいる。それに誘われるように、僕はウルズの膝の上に座った。柔らかく温かいウルズの身体に包まれるように、アルトは目を閉じる。
「あ、アルト。言い忘れたが、嵐が過ぎたら訓練を始め──」
──訓、練?
キシリアの言葉を最後まで聞くことはなく、アルトは意識を手放した。