「くぅっ! はぁっ!」
アルトは雨でぬかるんだ地面を蹴り、ウルズに肉薄する。手に持った棒を思いっきりウルズに振るが、余裕綽々といった感じに避けられてしまった。アルトは悔しくなり、二度三度と棒を振るがウルズには届かない。速度だ、速度が圧倒的に足りない。
「すまんアルト!」
ぷにっと柔らかい感触が頭の上に置かれる。ウルズが申し訳そうな顔をしながらアルトを見ていた。それを見て、アルトはキシリアに一言ガツンと言ってやろうと心に決めた。
嵐が過ぎ去ってから始めた稽古はアルトの全戦全敗だ。一日十戦、それがもう一週間続いている。最初の方は悔しかったが、今では悔しさも全く感じなくなってしまった。負けて当たり前だ、そもそも身体の土台が違うのだから。
「ちょっと、長! 何回も言いますが流石にウルズは無理ですって!」
「うーん、流石に申し訳なくなって来たっぺぇ……」
アルト達の戦いを見ていたキシリアに視線を向けると、長は僕達を全く見ずにサナをあやしていた。サナはキシリアに懐いたようで屈託のない笑みを浮かべている。金色の髪を引っ張られて、キシリアは「いたた、ちょっと離してくれ!」と嘆いた声を出していた。
「あ、ウルズ。今日はありがとう、もう帰っていいよ。それと明日からも手を抜かないように頼むね」
「……わかったっぺ、それじゃあアルト。また明日な!」
手を二回程左右に振ってから、ウルズは家に帰って行った。ウルズの背中を見送ってから、アルトはキシリアへ目を向ける。そこにいる金髪の男は、サナに髪を引っ張られながら、真面目な顔でアルトのことを見ていた。
「今日も全敗だったねアルト。これで何戦何敗だっけ?」
「言わなくてもわかるでしょう! 七十戦七十敗ですよ!」
アルトの答えに、キシリアは真面目な顔を崩して笑った。それを見て、アルトは「くそっ」と内心で毒づく。これはアルトの心を折りに来ているとしか思えない。勝てるわけが無い勝負を延々とさせて僕がいかに弱いかを突きつけるだけの作業だ。
──わかってるよ、僕が弱い事は。
「じゃあ、何が悪いかわかるかい?」
「僕に身体能力が無いからです……」
それ以外考えられない。アルトがウルズぐらいの速さを持っているならここまで苦労していないはずだ。しかし、アルトのそんな思いとは裏腹に、キシリアは目を伏せて首を横に振る。
「違うよ、君に無駄が多すぎるからさ」
「無駄ですか? これ以上何をしろと?」
「ふふ、何をしろとは面白い事を言う。まだ何もしてないのに」
アルトの言葉にキシリアは笑う。何が面白いのかアルトにはさっぱりわからない。
「アルト、君の長所はなんだい?」
「……ありません」
──長所、そんな物はない。それを僕は自覚している。それなのに、なぜそんなことを聞いてくるんだ?
「なんでそう思うんだい?」
「長がそう言ったからです。あなたが言ったんじゃないですか、僕に出来ることなんてないって」
「ははは、素直でよろしい。だけど、ボクはそう言ってないはずだ。
前に詰めた時に使った言葉をキシリアはもう一度アルトに言い聞かせた。その言葉は自身が無力なことを突き付けてくるからアルトは嫌いだった。
「それはッ……長所が無いということじゃないんですか?」
胸の内に膨れた苛立ちをそのままキシリアにぶつけそうになるのを必死で堪える。しかし、そんなアルトを見てもキシリアは笑うだけだけだ。
「違うよ、例えばそうだな……素直なことは君の長所だね」
「褒められているんですか?」
「もちろん。そんな素直な君に一つだけヒントをあげよう」
ビシッと音が出るんじゃないかと思うくらいの勢いでキシリアが人差し指を立てる。アルトはキシリアの言葉を聞き逃さないように聞き耳を立てた。
「アルト、いいかい。持たざる者には持たざる者なりの戦いがある。それを今の君には学んで欲しいんだ」
「持たざる者の戦い……」
アルトがオウム返しのように呟くと、キシリアはこくりと頷き「だから勝てないと思う程、実力差があるウルズと戦わせているんだ。負けをただ受け入れるのではなく糧にする。君にはそれが出来ると思っているからね」
「意味が半分だけはわかりました。長には何か意図があって、この無茶な訓練をさせているということだけですが」
「うんうん、今はそれでいいよ。歳よりの戯言なんて頭の片隅にでも置いてくれたらいい。時々ふっと思い出してくれる機会があったら尚嬉しいだけさ」
今のアルトにはキシリアの言っていることは理解出来ない。
──それは僕が子供だからなんだろうか? とアルトは思った。大人になったら理解出来る日が来るのなら早く大人になりたいとさえ思った。そうすれば、サナのお守りだって楽にこなせるはずだ、と。
「それじゃあ、これを宿題にしよう。明日、君の考えた戦い方を見せてくれ」
「明日!?」
それはあまりにも短すぎないだろうか。それだけキシリアがアルトを信頼しているのか、それともただ単に無茶ぶりをしただけなのかは想像がつかない。ただ、キシリアはいつも通り温和な表情を浮かべてニコニコしているだけだった。
「ちなみに、出来てなければ何かバツを与えるよ? そうだな、シュノーの丘の草でも刈ってもらおうか。この前の嵐の影響で害虫が湧いてきそうなんだよなぁ」
「シュノーの丘……本気で?」
「うん本気、だって誰もやりたがらないもの」
シュノーの丘とはこの島の西に位置する場所である。そこは野生の獣が多く生息している場所で、あまり島の人も行くことがない。だから、獣の糞とかが至るところに転がっていて、酷い匂いがするのだ。
「お、長。それだけは……」
アルトは懇願をしてみるが、キシリアはニコニコ顔のまま口を開き、「ダメ」と切り捨てて来た。この人は、体よく雑用を押し付けられる人材を与えたいだけなのではないかという疑惑が頭の中に浮かんでしまった。
「それじゃあ、今日はこのまま宿題に移ります……」
「何言ってるの、勉強がまだでしょ?」
何を言ってるのか問いただしたいのはこっちの方だ。難解な宿題を押し付けておいて、普段通りに過ごせとこの人は言うのだ。
「あの、宿題に集中したいのですが……」
「そうだね、したいよねーわかるわかる」
「わかるならさせてくださいよ!」
「だからダメ。それに今からの授業でヒントが出るかもしれないよ?」
キシリアの考えはわかっている、これは餌だ。そんな見え見えの餌に釣られるわけにはいかない。
「ふむ、流石に掛からなくなったか。ではこうしよう、ヒントが出るよ」
「わかりました、勉強をさせていただきましょう」
そうとなれば話は別だ。今日も勉強に勤しむとしよう。アルトはキシリアの家に向かって歩き始めた。
「あ、マーサにこの子を預けてから行くから先に入っててね」
「わかりました!」
言葉を交わし、アルトとキシリアは別れた。
「では、今日はこの世界にあるマナという物について勉強をするよ。わからないところがあったら手を上げて欲しい。」
長が木の板にクロの木の先を使ってマナという文字を書いていく。マナ、初めて聞いた言葉だ。
「マナとは世界中に流れる力のことだ。例えば……この前来た嵐、あれもマナの塊だね。火のマナ、風のマナ、水のマナ、が含まれている。火のマナによって水のマナが熱せられ、風のマナを取り込みながら大きくなっていくんだ。ここまででわからないことは?」
「マナの種類が多くて把握できません」
「そうだなぁ、空に光る大きな玉は太陽というのだけど、それは火のマナを常に放っているんだ。そして、海は常に水のマナを出してくれている。それらが相殺し合ってこの世界は成り立っているというわけだ。もしどちらか一方が無くなってしまえば世界は破滅を迎えてしまうだろうね」
世界の破滅と言われてもピンと来ない。本土という言葉も勉強で聞いただけのアルトには世界の広さなんてわからなかった。
「話に付いていけないんですが」
「まあ、ここまでの話はただの前提だから別によくて、このマナというのは実は使える種族がいるんだ」
「……使える?」
「うん、ほらこうやって」
顔に柔らかな風が当たった。前髪が上がる程の風が突然キシリアから出て来た。
「今のは辺りに漂っている風のマナを力に変えて君に当てたんだ。どうだい?」
その不思議な現象に、アルトの頭の中にはキシリアにしたい質問が沢山浮かんだ。その一つをアルトは口にする。
「あ、あの! それって僕にも使えるんですか!」
「いや、使えないよ?」
「じゃあ、なんで言ったんですか! せっかく僕にも使える力があると思ったのに!」
頭の中に浮かんだ質問の大半がそれで無意味になった。ヒントはこれなのかと勝手に勘違いしたのはアルトだが、あまりにも現実は無情だった。
「種族の特性を理解してもらいたかったからだよ。それがヒントだ」
「種族の特性って……人間族は何も持たない、この島にいる誰よりも少し器用なだけで他に何も……」
──器用なだけ、器用とは何か。手先が動くだけが器用なのか? 手先が器用なだけなら猿族の方が上だ。だけど、アルトに出来ることは何でもある。
アルト頭の中に選択肢が広がっていく。そうだ、何で自分は
「うん、いい顔だ。はい、ヒントは終わり。後は勉強を頑張りましょう」
「はい!」
頭の中にどんどん浮かんでくる想像を一旦止めて、アルトはキシリアの言う通り勉強に打ち込むことにした。