「……もう、来なくていいから」
ドア越しに理代から冷たく放たれた一言。
最初、何を言われたのかわからなかった。
時間の経過とともに、じわじわとその意味を頭が理解し始める。
背筋がひやりと凍る。
理代から明確に拒絶された───。
息が苦しくなった。
心が音を立てて折れそうなほどの衝撃が降りかかった。
鼻の頭がつんとする。
……間違っていたのか。
勇気づけるために話しかけて。
パンケーキを作って。
理代のために何ができるか、必死に考えて。
全部、全部余計なお世話だった。
理代にとっては、あれもこれも迷惑だった。邪魔だと思われていた。嫌がられていた。
その事実に胸が痛む。
遠ざけられたことが、受け入れられない。
俺は、選択を間違えてしまったのか。
足元がふらついて立っていられなくなり、廊下の壁に背を預ける。
何もしなければよかった。
時が経てば、心が回復して部屋から出られるようになったかもしれないのに。
俺が関わったことで、理代は大きく傷ついただろう。
もう、理代を救えないのだろうか……。
あのコロコロと変わる楽しい表情を見られないのか。
一緒になんでもない会話をできないのか。
漫画を読んだり、ゲームをしたりしてダラダラと過ごせないのか。
放課後、毎日一人自室で過ごす自分を想像する。
────嫌だ。
そんな現実、絶対に認めたくない。
認めるわけにはいかない───!
力が抜けて崩れそうになる身体を、歯を食いしばって耐える。
僅か数歩分の距離をゆっくり歩いて、再びドアを前へ行き、そっと表面に触れる。
拒絶された以上、何をすればいい。
何もしないなんてことはできない。このまま黙って自室で理代が元気になるのを待っていて、はたしてくるのだろうか。
そもそも、何もしないことに身体が拒否反応を覚える。
何かしら、解決の糸口があるはずなんだ。
俺は、理代がなぜ拒絶をしたか、今一度深く考えることにした。
鬱陶しかったからか?
迷惑だったから?
本当にそうだろうか……?
……落ち着け、俺。
ゆっくり、深く思考する。
理代のことを、その内面を、時間をかけて理解していく。
……よく考えれば、理代は面と向かってそんなことを言うやつじゃない。
言われたことが衝撃的すぎるあまり、そこに気づけなかった。
他人を気遣って、その心情を考えすぎてしまうほどの優しい人。与えられた恩は全部返さなくてはならないと思っている人。
それが、理代のはずなんだ。
理代のことをずっと間近で見てきたから、わかっているつもりだったのに。こんなことを見落とすなんて。
自責の念に駆られるが、今は落ち込んでいる場合じゃない。
ならなんで、理代は俺のことを突き放した……。
優しさで突き放す……。
優しさ、遠慮……。
…………。
────そうか。
わかったかもしれない。
理代がどうして、こんな発言をしたのか。
なら、俺がやるべきことは……。
息を整え、正面を見据える。
「理代、悪いがもう来ないなんてことはできない」
「…………」
微かな息遣いがドアの向こうから聞こえてくる。
俺は手を強く握りしめて、告げる。
「なんで俺が毎日ここへ来るか知ってるか?」
返ってくるのは沈黙。考え込んでいるのかもしれない。
だが、この答えにはたどり着けないだろう。
理代は、優しすぎるから。
人が醜いことを思考していても、その考えになかなか至らない。
「理代が大きく変わって学校で注目を浴びてた時、俺の心は沈んでたんだ」
一番近くにいる理代にすら言えなかった醜い本心を、ずっと隠しておきたかったやましい気持ちを、赤裸々に伝えていく。
「それがなんでなのか、ずっとわからなかった。理代と一緒に出かけたり、今こうして話したりしてみて、心が浮き沈みしているのを自分なりに咀嚼してやっとわかったんだ」
あの感情がなんなのか。
本当は、心のどこかでわかっていたのかもしれない。
でも、それを認めたくなかった。
自分がそんな感情を抱えている事実に、向き合いたくなかった。
「…………俺は、寂しかったんだ」
寂しい。そんな当たり感触のない言葉で取り繕ったが、本当はそうじゃない。
「……さび、しい?」
疑問に思ったのか、ドア越しに理代の小さな呟きが聞こえてくる
「ああ。理代が他の人と話していたり、俺のお喋りになかなか応じてくれなかったりして、すごく寂しかった」
こう伝えればだいたいわかったはずだ。
寂しいの本性を。
俺が理代に覚えた気持ちは、独占欲や嫉妬という醜い感情だった。
今までずっとそばにいたから、それが当たり前になって、理代が俺以外の誰かと一緒にいることにもやもやした。
友達ができたと報告するその姿に、遊んでくるというその成長ぶりに、教室でちやほやされている光景に、嬉しさと同時に微かな寂しさが芽生えた。
幼馴染としてあるまじき感情だ。
理代がずっと近くにいて俺を頼ってくれることが当然だと、心のどこかで思っていたんだ。
そんなはずないのに。
理代だって一人の人間だ。
いつかは、俺とは違う道を歩んでいく。
なのに……。
「俺は理代がいる生活が当たり前で、そんな環境に依存しきっていて、その当たり前が崩れ去って初めて自分の本心と向き合えた。……でも、それくらい俺にとって理代は大切な存在なんだってことが、はっきりとわかったんだ」
「大切な存在……ほんと、に……?」
理代は、俺の台詞が本当であるのか確かめるように、繰り返す。
「ああ。代わりなんていない、俺の唯一の幼馴染だ」
「でも、わたしがいたところで、たーくんに迷惑ばっかりかけるだけだから……だから、わたしは、いらないから!」
理代に俺の気持ちが伝わらず、もどかしく感じる。
どうしてここまで言葉をぶつけて、駄目なのだろう。
理代は自分が迷惑をかけてばかりいると思っている。
でもそれは、理代の主観だ。
俺から見れば、自分の方が理代に寄りかかっているような気がしている。
弁当の件だったり、動画の件だったり、放課後は一緒に過ごしていることだって。
けれど、理代にとって俺が必要ないとは思わない。そして、俺にとって理代は大切な存在だ。
理代がいてくれたおかげで、今の俺がある。それだけは間違いないんだ。
だから───。
俺は、力強くこの気持ちを告げるため、大きく息を吸った。
「迷惑なんかじゃない! 俺には───っ」
迷惑じゃない。
迷惑なわけがない。
だって……。
「───理代が、必要なんだ!」
心の底からの想いを大声でぶつけた。
理代が動揺している空気が、ドア越しにも伝わってくる。
もしかしたら近所迷惑かもしれない。
それでも、今この時だけはこうするしかなかった。
理代は、いらなくなんかないと。
俺にとっては、何がなんでも必要なんだと。その想いを告げるには、理代に気づいてもらうには、これが一番の方法だった。
「毎日くだらない話をして、ゲームして、漫画読んで……そんな当たり前の日々を一緒に過ごせるだけでいいんだよ! 十分なんだ! だから……自分の存在を否定するようなこと言うなよ!」
「……っ!」
心のうちにある、ありったけの気持ちをそのまま言葉にしていく。
めちゃくちゃでいい。
大したことじゃなくていい。
理代と過ごす、ごく普通で当たり前のなんてことのない平穏な日常が、俺にとってはどんなものよりも大切なんだ。
あの毎日が好きなんだ。
それを失うことがどうしようもなく怖い。
椎川はかつて言った。
兄を失った非日常が、いつの間にか日常と化していたと。
理代がいない非日常が日常と化すなんて絶対に嫌だ。
だから、ありのままを言葉に込め、理代へ届ける。
「……頼むから、一緒にいてくれ」
「……っ」
「こんなやましい感情抱えてるけど、俺にはどうしても理代が必要なんだ」
大きな声を出した反動か、少し枯れ気味の声で必要性を何度も訴える。
「理代がいなきゃ、嫌なんだ……」
頭の中を色んな思いが錯綜する。
率直に伝えられてすっきりした。
でも、こんな風に馬鹿げたことを大声で言って、急に恥ずかしくなってきた。
俺が伝えたいことはすべて伝えた。
理代はどう思うだろうか、この発言を。
届いただろうか、この気持ちが。
ガチャリと音がした。
俯きかけていた顔を上げると、ドアが押し開かれている。
その向こうには、久々に見る理代の姿があった。
髪はボサボサで、パジャマを着ているが、そんなことは気にならなかった。
ずっと、また会うことを望んでいた。
それが今、叶ったのだ。
「たーくん……」
申し訳なさと、感謝の気持ちと、恥ずかしさと、すべてを綯い交ぜにしたような不安定な表情を浮かべる理代。
「えっと、はい」
そんな理代は、俺へティッシュ箱を渡してきた。
「……?」
意図がわからず、理代の顔を見つめる。
「あの、涙出てるから、これで拭いて?」
「泣いてる、のか?」
「うん……」
視界が潤んでいることに今更気づいた。廊下も部屋も暗くて、わかりづらかったせいかもしれない。
手のひらで目元を拭うと確かに濡れていた。手渡されたティッシュ箱を受け取り、何枚か抜き取って涙を吸わせる。
あっという間に湿り気を帯びたティッシュ。どうやら相当泣いているようだ。
「……たーくん」
真正面から向き合って理代は俺の名前を呼ぶ。瞳は薄暗闇の中でも薄く膜が張ったように青く光っていた。
「わたしを必要としてくれて、ありがとう」
胸元に飛び込んでくる理代の背中へそっと腕を回す。俺より頭ひとつ分くらい小さな理代は、すっぽりとおさまった。
「もう、大丈夫なのか?」
「うん。わたしがいないほうが困るんだったら、いなくちゃなと思って。……もう迷わないから。思い悩んだりしないから。いっぱい迷惑かけてごめんね」
きっと理代は誰かのために何かをすることで自分の価値を認められるタイプなのだろう。
そうじゃなきゃ自分に価値なんてない、自分は必要ないと思い込んでしまう。
そんなことはないのに。
人はそこに存在しているだけで価値があるのに。
でも、そんな理代の心情に気づけたからこそ、俺の弱みを晒して、理代の必要性を伝えられた。
かっこわるい感じになってしまったが、理代を救えたんだ、結果オーライだ。
「これからは、ちゃんとそばにいるから」
理代が顔をあげる。
その瞳が俺を捉える。
「だから、たーくんもずっとそばにいてね」
「ああ」
「大切な幼馴染としての約束」
理代はそう言って、にこりと晴れやかな笑みを浮かべたのだった。