マオは語学以外の、基礎的な教養の勉強なども受け始める。
至極つまらなくはあるが、教えてくれる先生方は良い人達ばかりで、誰もマオを虐げたりしない。
生きるために必要な事だと割り切って勉強を始めたが、元来要領の良いマオの吸収力は凄いものであった。
リオンの為に、というよりは教えてくれる先生方の期待に報いる為だ。
重ねて言うがけしてリオンの為ではない。
「勉強捗ってる?」
ひょいっと顔を出したリオンに、露骨に嫌な顔を向けたマオを見て、先生はびっくりする。
リオンは外面がいい為、このようにあからさまな嫌悪を向けるものなど少ない。
それなのにこの王子妃は、威嚇ともいえる表情でリオンを見ているのだ。
「ほら、アマンダ先生が驚いている。そういう表情は良くないよ」
笑って、とマオの頬にリオンは触れた。
気やすい態度や口調は、マオへの親しみが見えるけれど、マオはその手を振り払った。
「いいのです。そもそもリオン様は、現在公務の時間なのです。ぼくを口実にサボるのは止めるです」
確かに休憩時間ではない。
「いいじゃない、愛しい妻に会いたくて来たんだよ。それに規定量の仕事は終わらせてある」
甘い声でそう言うとマオの頭を撫でる。
「アマンダ先生、少し早いですが休憩でいいでしょうか?」
リオンの問いかけに時計を見る。
早過ぎるが、わざわざ聞くからには意図があるのだろう。
アマンダが了承し、退室するとリオンはマオに抱き着いた。
「離すです、変態!」
「失礼だね。愛する妻を抱きしめるのは、皆がする事だろ?」
細く見えるリオンの腕だが、まるで振りほどけない。
身体強化で筋力を上げ、逃がさないようにしているのだ。
「あんなに夜は可愛いのに、どうして人前では素っ気無いの?」
「キレてるからですよ!」
マオは諦めることなく、リオンの体を押し返そうと頑張る。
「何で? 何に怒ってるの?」
「勉強の邪魔はするし、人前で触れてくるからです! 普通の貴族はそのような事しないです。愛が重いのです」
「兄様達もこうだけど?」
まるで意に介さないリオンに、マオは脱力する。
「アドガルムくらいですよ。こんな執着みせるのは」
「生憎と僕たちは愛する人を手放したりしない、諦めてくれ。娼館で見た男達とは違うだろうが」
マオの最後の男になるんだとリオンは意気込んでいる。
「それとも忘れられない男でもいた?」
「……」
マオは無言を貫く。
「僕はマオが好きだからいつか全て教えてね」
唇にキスを落とすがマオの体は硬い。
(時間、もう少しかかるか)
まだ心を溶かしきるのには早そうだ、抱えている秘密がきっと邪魔をしている。
(まぁ僕が構いすぎるのもいけないのだろうけど)
そうとは自覚していても、からかいたくて仕方ないのだ。
その時ノックの音が響く。
「失礼いたします、リオン様。二コラです。こちらにいると伺いましたが、入ってもよろしいでしょうか?」
珍しい訪問者にリオンは訝しんだ。
エリックからけして離れない従者兼腹心が、わざわざ一人で来るとは良い予感はしない。
「内容次第だ」
兄の側を離れてまで話したいなど、怪しい。
「一緒にいるマオ様……いえ、マオに関しての話です」
呼び捨てにする言葉に、リオンの眉がぴくんと跳ねる。
「許可する、入れ」
リオンはマオを引き寄せ、短くそう言った。
改めてマオは二コラを見る。
薄茶の髪に黒縁の眼鏡、気弱そうで大人しそうな人種だ。どこかで見た覚えはあるが、思い出せない。
「どちらさまで?」
こうして顔を見てもわからない。
「覚えていないだろう、あの頃とは雰囲気も違うし、顔つきも違う」
マオの顔を見ながら、二コラは静かに話し始めた。
「お前の兄だ。今はエリック様に頂いた名を名乗らせてもらっている、しばらくぶりだな」
「兄さん?」
あの凄惨な顔とギラギラした目をした兄なのか。
髪色だって明るくなり肌艶もいい、変わり過ぎてわからなかった。
「そうか、二コラがマオの兄……では証拠を消していたのは君か」
マオに関する都合の悪いものを根絶やしにしたのは、二コラで間違いないと、確信する。
それくらいの事を平気で行う人物だからだ。
「えぇ。妹にはシェスタの王城で、幸せな生活を送ってもらいたかったので。過去を知るものは全て消しました」
二コラは苦笑する。
リオンの婚姻相手を聞いて、まさかと思ったのだが、こうして再会できるとは。
王城では酷い扱いだったようだが、二度と飢えない環境で雨風をしのぐ場所もある。
過去の生活よりも、マオは幸せなんだと自分に言い聞かせていた。
昔の二コラは人を殺して生活をしていたが、あの頃はそれしか生きるすべがなかった。
物心つくまでは一応母親は生きていたが、マオを産んで間もなく病で死んだ。
娼婦の母親が死ねば、それまで住んでいた場所など関係なく、呆気なく追い出される予定であった。
その日暮らしの生活に、心も体も疲弊する日々が続く。
それでも守るべき対象であるマオがいたのが、二コラの救いだ。
人を殺め、金品を奪い、金を払う代わりに娼館にて幼いマオを預かってもらう。
(子どもが一人でいるなど、攫ってくれと言っているようなものだ)
シェスタの国王が、気まぐれでマオを引き取ってくれたのは良かった。
これで人並みに生きていける、もう、マオに汚れ仕事などさせなくていいのだと。
「娼館を燃やしたのは何故だ。お世話になったのだろう?」
「そこの主人が約束を違え、マオを娼婦にしようとしたので消しました。屑しかいなかったのでご安心を」
金を払い、マオを守ってくれるという約束を反故しようとしていたのだ、許せない。
「他には何を? 今こうして来たという事は、全て話してくれるのだろ」
身体強化を使ってるわけでもないのに、マオはリオンから離れられない。
圧が違う。
「えぇ。リオン様がマオの幸せを確約したら全て」
「兄に誓う、話せ」
二コラにとってはエリックこそ至上だ。
居もしない神に誓うよりも信憑性がある。
「兄さん、ぼくが言うです」
マオはこれを機に、心の荷を下ろそうと思った。
これ以上傍にいたら、ほだされてしまう。
「ぼくも人を殺して生きてきたです、だからあなたに相応しくないのです」
ずっと秘密にしてきた。知られたら罪人として処罰されることだ。
二コラとは違い、マオは仮にも王女だ。立場上、けしてしてはいけない事だろう。
この責任をリオンにも背負わせるわけにはいかない。
「騙すようで申し訳ないです、王女どころか、ここに居られない人殺しなのです。ですから、ここから追い出して欲しいです。リオン様の瑕疵になるですから」
「それがどうした。人殺し? 生きてくためにしたことだし、善良な者を甚振って殺したわけでもないだろう。困っている子供に助けの手も差し出さなかった、周囲の大人も悪い」
(マオの言葉などある程度予想していたし、それくらい構わない)
快楽殺人を起こしたわけでもない、きちんと罪悪感を持ち、秘密をつき通そうともしなかった。
誠実でしかない。
「それに顔も知らぬ者の命よりも、こうして今マオが生きている事の方が、僕には大事だ」
優しく抱きしめた。
「二コラ。僕を侮ったか? そんな事でマオを嫌いになるわけがない。あのような兄がいるんだ、予測ぐらい出来ただろう」
「……そうでした」
二コラがいつもの笑顔でへらっと笑う。
「マオもその程度で悩んでいたのか? 僕の瑕疵など気にするな」
もしもそういう者が出てきたとしても、跳ねのけるつもりだ。リオンにはそれだけの力と功績がある。
「マオの初めての男として責任を取らなきゃいけないし」
さすがに兄の前でのその発言は許せない。
「変態!」
バチンと言う音と衝撃に、叩いたマオの方が驚いた。
リオンが避けもせずに、まともに平手を受けたからだ。
「なんて避けないですか?!」
「一回くらいは受けとかないと悪いと思ってね、でもさすがに痛い」
見る間に赤くなる頬を押さえ、痛みに顔を顰める。
端整な顔が台無しだ。
「すぐに治癒師を、サミュエルを呼ぶです」
焦るマオの姿に二コラは安心した。
リオンを真に嫌うわけではないようだ。
「幸せになるんだよ」
大量の涙を流しつつも、二人の邪魔をしないようにニコラは慌てふためくマオと、冷静なリオンに背を向け、静かにその場を後にした。