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第16話 夢蟲

                ***

 僕は山門をくぐり、カシャカシャと玉砂利を踏みつけて、お寺の境内へと入っていった。 

 黄色い菊の花を持った母はずいぶん先へと進んでいて、慌てて後についていく。

 本堂の裏手に進むと、一面に墓地が広がっている。

 右手には、沼だか池だかわからない大きな水溜りがあって、蓮の花が綺麗に咲いていた。

 その沼に面した一番本堂に近い場所に、黒い御影石でできた墓がある。祖父の墓だ。

 僕は去年よりずいぶん背がのびたので、墓のてっぺんを見ることができた。

 鳥の白い糞が異様に目立つ。

 早く綺麗にしてあげないと。

 そんな事を考えていたら、ふと視線を感じた。

 ふりむくと、そこには白い蝶がゆらゆらと頼りなげに飛んでいた。

 アゲハ蝶位の大きさだ。

 あんな大きくて白い蝶は初めて見た。

 もしかして新種だろうか?                        ** 

 虫にはそれほど興味はなかったけれど、新種かもしれないと思うと妙に欲しくなった。

 蝶はふらふらと墓地の奥へ奥へと飛んでいく。

 捕虫網を持っていなかったというのもあるけれど、僕はその蝶をなかなか捕まえる事ができなかった。

 蝶は草むらや、墓の影に隠れて、消えたかと思えばまた現れて……というのを繰り返した。

 気がつくと、ずいぶん墓地の奥深くまで来ていた。周りの墓は、古くて崩れかけていたり、苔に埋もれていたりしていて、ずいぶん長い間、誰もお参りに来ていない事がわかった。

 何だか急に体が重くなる。

 蝶も疲れたのか、地面にとまり、肩で息を吸うように大きな羽を開閉させた。

 僕も地面に片ひざをつき、体勢を低くして大縄跳びの時みたいに、タイミングを見計らった。

 羽が何度目かに閉じた瞬間。  

 今だ!

 さっとのばした右手の指先が、柔らかな羽を摘んだ。

 やった! 捕まえたぞ!

 ──ほぅ。

 ──捕まえてしまったか。

 ぎくりとして顔を上げると、小柄な老婆がほんの数歩先に立っていた。

 小さな顔に対して目も口も異様に大きい。

 だけれど鼻はほとんど無いと言っていいほど小さい。

 白く濁った両の眼は左右で違う方を向き、ぴくぴく痙攣していたので、到底見えているとは思えなかった。

 野良着の様な服装だが、生地はずいぶん色褪せ、ゴワゴワしていて妙に生臭い。

 その上あちこちシミでまだら模様になっているので、元の色がさっぱりわからない。

 袖も丈も短く、大小の穴が空き、糸もほつれていた。

 そんなボロ布から生えた手足は、木乃伊のような水気の無い皮膚で覆われ、頭、ひじ、ひざ、指、それぞれの骨の形がはっきりわかってしまう程に痩せている。

 山姥。 

 そんな言葉が浮かんで、みるみる怖くなった。

 老婆はゆらゆらと左右に揺れながら僕の方に近づいてきた。

 ──殺生はいけない。

 ──特に、蝶はいけない。

 ──蝶は昔から『夢虫』というのだ。

 ──殺してしまったら、

 ──誰かが夢から覚めなくなってしまうよ。

 ──さあ。

 ──放しておやり。

 嫌な声だ。気持ちが悪い。耳元で蚊が飛んでいるような嫌な気持ちになる声だった。

 老婆はいつの間にか僕の目の前まで来ていて、やはりゆらゆら左右に揺れていた。

 ふいに揺れがぴたりとまったかと思うと、にいっと笑った。

 そして干からびた両腕を、蝶を掴んでいる僕の右手にのばしてきた。

 本当は僕を捕まえようとしているのか?

 捕まえられたら僕はどうなるんだろう? 昔話に出てくる山姥は人間を……。

「う、うわああ!」

 僕は叫んで、逃げた。

 後ろは振り返れなかった。

          ** 

 僕は闇雲に走っていた。

 このあたりまで来ると、お墓も比較的新しく、崩れている様なものは無い。

 だけどお墓の大きさはまちまちで、中には僕の背よりも高いものもあり、視界を遮られる。

 それに、みっしりと並んで建てられているから、やはり視界は悪く、方向感覚がおかしくなる。

 迷路の中を走っている気分だ。

 僕は汗だくだったけど、これは夏の暑さのせいなんかじゃなくて、冷や汗とか脂汗とか言われる類の汗なんだろう。

 ぬるりとした不快な汗は、僕の体温を奪いながら、ボタボタ流れ落ちていく。

 僕は元の場所に戻れるのだろうか?

 母さん。

 母に助けを求めようとしたが、ハッハッと空気が吐き出されるだけで声が出ない。

 肺が痛い。

 汗が目に入ってキラキラ反射する。

 視界が余計に悪くなる。

 遠くに、蓮の花を背負った綺麗な女の人が立って居た。

 母だ。

 母が祖父の墓の前に立っているのが見えた。

 僕は戻って来れたのだ。

 最後の数歩を滑り込むように走りきった。

「どうしましたか?」

 返事をしようとしたけれど、やっぱりまだ犬みたいにハッハッと息を出すだけで声が出なかった。

 母が背中をさすってくれるので、少しづつ呼吸が整ってきた。

 恐怖にかじかんでいた心臓も、どくどくと力強く波打ち始め、冷え切っていた体に温かい血が巡って行くがわかる。

 母が心配そうに眉根を寄せ、顔を覗き込んでくる。

 その綺麗な顔を見て、僕はようやく安心した。

「……何でもない」

 声が出た。

 言葉と体温を取り戻した僕は、あんな小さい婆さんに怯え、尻尾を巻いて逃げてきた事が急に恥ずかしく思えた。

 何だか無性に腹が立った。

 僕が居ない間に祖父の墓は、すっかり綺麗に磨かれていた。

 花立には菊の花が飾られ。

 供物台にはお供えがされ。

 香炉の中では線香の束が赤々と燃えている。

「それ、綺麗ですね」

 母がニコリと微笑んで僕の右手を指した。

 驚くことに、僕はまだ白い蝶を手にしていた。糸より細い脚が、じたばた動いている。 こいつのせいで、変な婆さんに絡まれたかと思ったら、理不尽な怒りがまたムクムクと沸いてきた。

 汗と共にすっかり興味もひいていたので、僕は、あわれな蝶を火にくべた。

 ──じゅ。

 蝶はカサカサと紙みたいに燃えて、線香の灰にまじって消えた。

 ただの腹いせだった。

「ひっ!」

 母の悲鳴で振り向くと、先程の老婆が墓の前に立っていた。

 母は老婆を見て固まっている。

 ──ああ。殺生だ。

 老婆はゆらゆら揺れながら僕を見て、ゆっくりと両の手のひらを合わせた。

 そしてあの妙に耳につく、嫌な声で蝶のために念仏を唱えた。

 ──南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏……。  

        ** 

「何だか気味の悪いおばあさんでしたね」 

 その日の晩御飯は祖父の通夜の時みたいに、母も僕も喋らず、ただ黙々と機械的に箸を動かしていた。

 しかし長い沈黙に耐えかねた母がついに口を開き、続けてわざと明るく言った。

「私は、山姥かと思いましたよ」

 母は異様な風体の老婆に驚き、僕が蝶を燃やしたのを見ていなかったようだ。

「お母さま。人を見かけで判断しちゃいけないっていつも仰るじゃないですか」

 僕は心にも無いことを言った。

「そうね。ごめんなさい。ああいう場所だから余計に怖く感じたのかもしれません」

「昼間でも、墓地は怖いですね」

「ええ。ただでさえ、お寺とか、お墓には怖い話や迷信が多いものですし……」

「迷信?」

「墓地で転んだら、片袖を置いて行けとか、靴を置いていけとかその類いのモノです」

「どうしてですか?」

「ええ、そうしないと幽霊に腕とか脚を持って行かれるとか。あの世に連れて行かれるんだとか」

「……お母さん」

「はい」

「夢虫って聞いたことありますか?」 

「ああ。確か蝶々の異名でしょう。『蝶は寝ている時に人から抜け出る魂だ』という。だから夢虫って呼ばれるになったって聞いた事があります」

「……」

「……後は、そうですねぇ。お盆の時期に墓場で殺生すると先祖が地獄におちるとか」

「……」

「ちょっと、どうしましたか? 光太郎さん。顔色が悪いですよ」

「は、はい。なんだか気持ちが悪くって……」

「あら。大変。夏風邪でしょうか? 早く寝た方がいいわ。待ってて頂戴、お布団しいて来てあげますから」

 そんなにふらふらしていたら、二階に上がるのも大変だろうと、母は一階の庭に面した部屋に布団を敷いてくれた。

 窓からちょうど月が見える。

 青白い月と、蚊取り線香の香りが昼間の蝶を思い出させた。

 ──あの蝶。

 ──可哀想な事をしたな。

 ──何も殺すことなかったんだ。

 ──そうだ。

 ──明日、蝶の墓を作ってやろう。

 月が隠れてしまったので、目を開けても閉じても真っ黒だ。

 これじゃ、寝ているのか起きているのかわからない。

 僕は少しでも寝心地の良い姿勢を探って、モゾモゾと体を動かした。

 蕎麦殻枕のカシャカシャという音が響く。

 右を下にして横になり、手足をちぢめる。

 そうやって蛹のように丸まって。

 どろり。

 いつもの夢に熔けてゆく。

 カシャ。

 カシャ。カシャ。

 カシャ。カシャ。カシャ。

 カシャ。カシャ。カシャ。カシャ。

 カシャカシャと玉砂利を踏みつける音がする。

 僕はいつもの様に寺の境内へと入っていった。

 黄色い菊の花を持った母はずいぶん先へと進んでいて、慌てて後についていく。

 本堂の裏手に進むと、学校の校庭程の墓地が広がっている。

 右手には、沼だか池だかわからない大きな水溜りがあって、蓮の花が綺麗に咲いていた。

 その沼に面した一番本堂に近い場所に、黒い御影石でできた墓がある。

 祖父の墓だ。

 僕は去年よりずいぶん背がのびたので、墓のてっぺんを見ることができた。

 鳥の白い糞が異様に目立つ。

 早く綺麗にしてあげないと。

 そんな事を考えていたら、ふと視線を感じた。

 ふりむくと、そこには白い顔をした少年がゆらゆらと頼りなげに立っていた。

 僕は気味が悪くなったので、逃げようとしたが、脚が空をかくばかりで思うように逃げられない。

 草むらや、墓の影に隠れてみたが、ついに後ろから

 ──ぐいっ。

 ──襟首をつかまれた。

 ──すごい力で身動きがとれない。

 じたばた足掻く僕の目の前には、いつの間にか老婆が立っていた。

 少年はくるりと身を翻し、もと来た道を戻っていく。

 老婆は笑いながら、少年に連れて行かれる僕を見ている。

 見覚えのある墓の前には母が居た。

 母に助けを求めようとしたが声が出ない。

 少年は、煙と炎に満たされた巨大な香炉に僕を押し込めようとする。

 僕は襟首を掴まれているので逃げられない。

 ああ。殺生だ。

 目の前が真っ赤に染まる刹那──。

 何かが聞こえた気がした。

 ──南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏……。


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