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第17話 小柳の依頼

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 目を醒ますと布団に寝かされていた。

 恐ろしい夢を見ていたようだ。

 頭痛が酷い。見えない何かが未だ鼓膜や脳にへばりついている気がする。

 僕は凄まじく冷や汗をかいていた。

 タエさんと小柳君が心配そうな顔で僕を覗き込んでいる。

「先生、先ほどは失礼を致しました」

 小柳くんが深々と頭を下げる。

「いえ、こちらこそみっともない所をお見せ致しまして……」

 なんとか身を起こすが半身が納豆のように糸をひき、ねっとりと寝床にへばりついているような心地悪さに床をなでるが何もない。当然だ。

 まだ少し寝ぼけているのかもしれない。


 僕の意味不明な挙動を見ていたのか、会話を続けようとした所でタエさんが割って入った。

「先生、まだお顔の色が優れません。それにご様子もおかしいです。震えていらっしゃいます。どうかもう少しお休みになっていて下さい」

 珍しく眉間に皺が寄っている。

 怒っているのだ。

「──そうかね」

「そうです。今、温かいお茶をお持ち致しますので、そちらを召し上がったら小柳様には一度お帰りいただいた方がよいかと思います」

 初対面の時のはにかんだ様子は露ほどもなくなり、タエさんはピシャリと小柳君に云い放つと台所へ立った。

 タエさんを目線で見送り、姿が見えなくなったのを確認して小柳君が再び口を開く。

「申し訳ありませんでした。タエさんにはすっかり嫌われてしまったようです。無理もありません」

「いや、あの娘はその時々の気持ちに素直な子だ。気にしないで下さい」  

「──いえ、むしろこちらの方が恐縮です。しっかりした、良い家政婦さんですね」

 ひとしきりタエさんに感心した小柳君は帰るかと思いきや、話を続けた。

「しかし、その手紙の方の体験も奇妙ですね」

 はて。僕は朧ながらも「夢蟲」の説明はしていたのか、それとも小柳君の天狗の通力か。

「──私やその方の様に、不可思議な事に対する経験への畏れや、敬いの心、思いなどは科学的言葉で云うと、集合的無意識、宗教的無意識、あるいは簡単に一言で『偶然の一致』という言葉に置き換えられてしまうのかもしれません」

 ──しかしながら。と、小柳君はやや身を傾け、真っ直ぐに僕を見つめながら例の秘密を打ち明けるかの如き仕草でささやきかけてくる。

「とにかくその方も、そして私も、貴方の作品を読む前と後では、人生も、世の中の見え方も全く変わってしまった──」

 チリリ。再び小柳くんの瞳に灯が燈る。

「小柳くん……」

「それほど素晴らしい読書体験でした。貴方の作品には人の心の核たる部分を揺るがす力があるのです」

 羽虫の如く弱った私の心。そして萎んでしまった自尊心は小柳君の灯にふらふらと吸い寄せられる。

 この世に頼れるのは今や彼の瞳の燈りしか無いのではないかとすら思った刹那──。

 小柳君は居住まいを正すと、再び両手をついてがばりと頭を下げた。

「──先生。改めてお願い致します」

「な、何だい」


「人魚が戻ってきた暁には、是非その人魚の話も書いてください」



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