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闇の中でしか咲かない花があった。
どのように実を結び、種を作り、花を咲かせるのか一切が謎に包まれた、幻の花である。
何しろ古い文献や異国の古ぼけた写真しか残されて居ない代物なので、多くの人々には存在すら訝しがられているが『その手のモノ』を好む夢追い人達の心の中には確実に存在していた。
その為、
そして、その花を手にした者は『真の幸福を手に入れる』とも、『真実の愛を手ににれる』とも云い伝えられている。
ある実業家は事業が成功し巨万の富を手に入れたという。
ある学者は新しい星を発見し、自らの名前を付けたという。
ある画家は日展で特選を獲った後に御国から褒章を得たという。
かの花は現在、過去だけでなくおそらく未来にも存在するであろう。
時間という概念ですら夢見人たちには超過するのだ。
ある若い物書きも、実はその幻の花を見た事があるという。
いつ、どこで見たのかは思い出せずにいたが、その花の美しさを、朧げながらも思い出すと沸々とヤル気が漲ってくるのだ。
朝から昼飯もとらずに一心不乱にに書き始め、夕方に人心地をついて筆を置く。
文字に埋め尽くされた原稿用紙を前に、瞼を閉じて幻の花を想う。
その時は神仏に手を合わせているような気持ちにすらなる。
見つけた時に無闇に摘み取らなかったのは、その花の無垢なる荘厳さ故かもしれない。
根っからの優しさから、自分の他にもこの花に手を合せたいと願っている者達を思ってだったかもしれない。
若さ故の情熱と思い込みで真の幸福は自身の実力で手に入れられると思い込んでいたからかもしれない。
あるいは、一度見たら、二度と忘れない自信があったからかもしれない──。
──だが。
ある日。その若き物書きのもとに、人生で何度目かの絶望が訪れた。
彼の花を思い出し、燃える心を取り戻そうと試みる。
しかし、その花は瞼を閉じて一心に想っても、記憶を頼りに深く思い出の中に沈んでも、いつしか幻の中にすら現れなくなっていたのだ。
こんなことなら、やはり初めて見たあの時に、手折ってしまえば良かったのだろうか。
いや、そんな乱暴狼藉はかの花に相応しくない。何より自分が嫌だ──。
やはり神仏に手を合わすように心からの願い、思い出すように、記憶を探り、その姿形を少しずつ書き留める──。
水滴で石を穿つような作業の繰り返しだが、それでも徐々に輪郭がハッキリとしてくる。
その様に彼は自身の原稿を前に、目玉が溺れる程に泣いた。
原稿を泣き濡らしながら眠りについた夜。
ついに原稿用紙が決壊し、ふやけた文字達が机上から溢れ氾濫した。
溢れ出でた文字達がのたりのたりと波うち、夢と現の間を寄せては返す。
それを幾度となく繰り返した後、ようやく彼の文机の隅に可憐な生き物が満月と共に流れ着いた。
朦朧とした意識の中、若い物書きはその瞼の内に朧げだったその花の香りと白い姿をハッキリと思い出した。