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ぱちり。
人魚と目が合った。
ぱくぱくと口が動く。
「なんだい?」
──旦那さん、あたし。言葉の海、怖かったわ……。
「うん」
──最初は楽しい事もあったの。旦那さんの童話みたいな優しい活字たちと遊んだの。
「うん」
──でもね、途中でビー玉を落としちゃって、言葉の海の深い、深いところまで行ったの。
「うん」
──其処のね、魔女みたいな海の生き物たちが交わす言葉がとても恐ろしかったわ。トゲトゲして、ゾッとするほど冷たくって。真っ暗なの。
いつ帰って来てもいいように、ぴかぴかに洗って磨いておいた金魚鉢。
敷き直した白い砂利、植え替えた青い水草。
その上に彼女をそうっと寝かす。
可愛らしい箱に入った餌もある。
気付け薬を一つまみ入れると、蒼白だった顔に徐々に頬に朱が差してきた。
──旦那さんは、あんなに広くて深くて恐ろしい海を、ずっと独りで泳いでいたのね。
彼女の瞳には涙か溜まっている。
「……」
──ごめんなさい。あたし、ちっとも知らなかったわ。
「……」
──あと、あとね。ごめんなさい。ビー玉……なくしちゃった。
はらり。と涙がながれ落ちた。
いいんだ。いいんだよ。何度も謝るのは止してくれ。そんな事よりも──。
「お前に、これを」
僕は恭しく取り出した
──キレイ。これ、どうしたの。
見開かれた瞳に、指輪の輝きが小さく反射する。
「掌編だけれど、久しぶりに原稿が仕上がってね」
──まぁ! おめでとう。
そうだ。この笑顔だ。
「お前おかげだ。……ありがとう」
僕も微笑み返す。
見てご覧。と彼女の頭の上に指輪を飾り、手鏡を向ける。
「お前の指に合うサイズは無くて……王冠みたいになってしまったね」
彼女の美しく整った顔の上には、小さなダイヤが散りばめられた指輪が載っている。
──ううん。とても素敵。お姫様みたい。
そう云って貰えると、慣れない宝飾店──しかも銀座。まで行った甲斐があるというものだ。
人魚は青い藻の林の中をくるくると小鳥の様に舞う。
パシャリ。
尾鰭が水面を叩き、花の香りが立ちのぼる。
──ありがとう。とっても嬉しい。
「そう云ってもらいたくて、奮発したよ」
──今日からあたし、旦那さんの奥さん?
「ああ」
──ふふ。
人魚は金魚鉢の縁に両手で頬杖をつき、うっとりと満足そうに僕を見つめる。
──また、お話読んで頂戴ね。
「ああ」
──大好きよ。
鼻腔がツンとした。
ぼうと視界が滲むのでグッと目頭を押さえる。
指先が少し濡れた。