緑雨は卓に立てかけてある剣を手に取り、懐愿に渡した。
「昼間、取り出したのを見た時は不思議な光を含んだ白い鞘だったような」
「目立つので黒い革の帯を巻いたんです」
「美しいのに、もったいない。抜いてみても?」
「どうぞ」
懐愿が柄を掴み、鞘から引き抜くと、そこには何もなかった。
「えっ、刃がないぞ」
柄だけを持ち、懐愿は訝しげな表情で鞘の中を見た。
「この剣、氷彩はわたしの……」
緑雨は一瞬口ごもったが、取り消すように話し続ける。
「えっと、わたしの仙力に反応して刃の形を変えるんです」
「刃の形が変わる……?」
緑雨は懐愿から渡された氷彩を持ち、柄を鞘に戻してから引き抜いた。
懐愿の大きな目が見開かれ、その視界に豊かな色彩が満ちていく。
「刃が! すごい……。これは、なんと素晴らしいのだろう。まるで透き通る彩雲のようだ」
現れたのは諸刃の剣。
それは光を含み、透明度のある乳白色の中に様々な色を湛えている。
反射する煌めきが緑雨の目を彩り、その姿が余計に懐愿の胸を高鳴らせた。
「長さを変えたり、刀にしたり……。いつも最適な形にして戦闘に臨んでいます」
「素敵だ。これは緑雨しか扱うことが出来ない特別な剣なのだな」
「武芸の修行で木製の軽い剣を卒業した日に、父から貰いました」
緑雨は感嘆している懐愿を見つめながら、剣を授かった日の父親の顔を思い出していた。
――「氷鳴律を治してやれない代わりに、その呪が緑雨を守る力になることを願う」
そう言って、悲し気に微笑む父の顔を。
「この剣は仙郷で作られたものなのか?」
懐愿の声に意識を現実に戻し、緑雨は頷いた。
「そうです。祖父が親友の刀匠に頼んで作ってもらったと聞いています」
「さすがは玉羽江湖。知るほどに興味深くなる」
懐愿は頷きながら、ふと動きを止め、緑雨を見る。
「そういえば、ずっと思っていたのだけれど……、江湖と玉羽江湖は何か違うのかい? もう誰が言ったか忘れたけれど、『玉羽の証』という言葉が気になって」
「ああ、それはこれのことです」
緑雨は空を遊泳する時に纏うように現れる新緑色の羽衣を見せた。
「なんと!」
「霊力のある人が高く長く遠く跳躍するように、仙力のある仙士はある程度空を自由に飛び回れます。その時に出現するこの羽衣のことを『玉羽』と呼ぶのです」
懐愿は腕を伸ばし、触感の無いそよ風のような羽衣に手を添えた。
「美しい。緑雨にとても似合っている。まるで初夏の風に揺れる鮮やかな青紅葉のようだ」
緑雨は照れながら羽衣をゆっくり消した。
懐愿は姿勢を戻し、何の感触も残っていない自身の手を見て好奇心を募らせた。
「神仙の血を引く者なら誰でも持っているのかい? ……いや、そもそも、神仙はどこから来て江湖に根付くことになったのかな?」
知識欲に火がついた懐愿の煌めく目に圧倒されながらも、緑雨はそれを嬉しく感じた。
「なんでも、太極天の怒りを買い、天界から落とされた四つの一族が江湖に降り立ったとか。確か……、五葉族、世杉族、黒花族、祥亀族です。彼らは武林が勢力を広げる中、隣接する場所に仙郷を開き、それを玉羽と称して暮らし始めたそうです。それから徐々に人間と交わるようになり今に至ると聞きました」
懐愿は頷きながらさらに質問を投げかける。
「神仙と結婚した人間の子供は全員仙士になるの?」
「そうですね。子供を授かることが出来れば、産まれてくるのは仙士ということになります」
「授かることが出来れば、ということは、難しいのか?」
緑雨は空になっている懐愿の杯に茶を注ぎながら答える。
「はい。仙力は人間にとって影響が大きく、禍福をもたらす力です。男性側が人間の場合は、その子種が女性の身体に流れる仙力に耐えきれず死滅したり、女性側が人間の場合は、子種が持つ仙力が強すぎて受精出来なかったりということが多いです。なので、人間との婚姻では仙子が生まれる確率は限りなく低いということになります。もちろん、子供が出来なくても仲良く暮らしている方々もいます。人間の子供を養子にとっている家庭もありますよ」
「なるほど。だから内界にその勢力が広がらないのだな。全ての一族の末裔は今も皆仙郷に住んでいるのかい?」
懐愿は杯を持ち上げ、味わうようにゆっくりと飲み干した。
「四つの一族の内、黒花族と祥亀族は千年以上経っても天界から堕とされたことを受け入れられず、どこかに去り、その後の消息は誰にもわからないらしいです」
「それは少し気になるな」
緑雨は先ほどからずっと湯気を吹き出し続けている茶釜の蓋を開け、茶器に湯を足した。
「聞きたいことは山ほどあるが、一度に聞いてしまったらもったいない気がする。緑雨も説明ばかりで疲れただろう。他のことを話そうか」
「では、明日の行程について論じましょう」
二人は地図を広げながら進む道や手段を話し合い、本当に徹夜することに。
気付けば空の昏さはやわらぎ、窓の外が白み始め、鶏の鳴き声が聞こえてきた。
「朝になってしまいましたね」
「私はとても好い気分だ。緑雨と一夜を明かしたのだからな」
「ううん、言い方が少し、なんというか……、あれです」
「事実だ」
晴れやかな笑顔を浮かべる懐愿に緑雨は苦笑を返し、二人はそれぞれ身支度を始めることに。
緑雨は借りた時に一度しか入らなかった部屋へ戻って室内を見渡し、次からは複数人で宿泊することを想定して整えられている部屋を選ぼうと決めた。
顔を洗い、髪を高い位置で結い直し、休むために着ていた楽な深衣を脱ぐ。
そしてしっかりとした生地の黒い戦袍に着替えた。
差し色の深緑が漆黒の威圧感を和らげている。
腰の左側に氷彩を佩き、目元と左頬までを隠せる仮面をつければ支度は完了だ。
緑雨は部屋を出て懐愿の元へ向かった。
「阿愿、何かお手伝いしますか?」
「大丈夫。もう出るところだ」
扉が開き、中から出てきた懐愿は、緑雨の姿を見て動きを止めた。
「な……。何故麗しい顔を隠すんだ!」
「今日中には闇市を運営している者達の縄張りに入れそうなので、顔を隠しておこうかなと」
「緑雨の可憐な顔を見ることが出来ずに旅をするなんて悲劇としか言いようがない」
落ち込む懐愿に、緑雨は今度こそ言葉を慎重に選んで言う。
「安全な場所では外します。つまり、阿愿だけがわたしの素顔を見ることが出来るということですね」
春風に巻き上げられた桜の花弁が満月を彩るような笑顔を浮かべ、懐愿はゆっくり頷いた。
「それならいい。とてもいい」
二人は階段を下りて客桟の主人に部屋を空けたことを告げ、外に出た。
「少し積もっていますね」
地面を覆う白くささやかな冷たさが、まだ薄暗い空から太陽が昇ってくるのを待っている。
「緑雨は外套を着ないのか?」
「寒さには強いので」
緑雨は馬小屋へ行き、預けた二頭を受け取ると、懐愿が待つ客桟の正面へ回った。
「では、行こうか」
懐愿は純白の外套をひらりとなびかせ、馬に乗り込む。
馬上から、馬に乗る瞬間の緑雨を見ていた懐愿は、違和感を覚えた。
自分も馬も、道行く人々も皆息が白いのに、緑雨だけは目立つほどの色がついていない。
何故なのか問おうにも、言葉が浮かんでこない。
「……えん、阿愿? どうかしましたか」
「あ、いや……。なんでもない。大丈夫だ」
二人は馬が転倒しないよう気を付けながら速度を上げ、先を急いだ。
目指すは青灯鎮。
首都華芳から一番近い闇市がある。
怪異の多い小高い丘をいくつか越えなくてはたどり着けないということもあり、天子の耳目となる者達の監視が届きにくい。
だからこそ、身分を隠して盗品を売買する者が集まりやすい地となっている。
緑雨と懐愿は二刻程駆け、辰の刻を迎えた。
太陽が空気を温めるも、風は冷たく、なかなか雪は解けないでいる。
「休憩しましょう」
二人は馬から降り、少し開けた場所で立ち止まった。
緑雨は馬を木に繋ぐと、空から調理道具や食材を取り出し、粥を作り始める。
「手料理!」
懐愿は緑雨にまとわりつきながらその手際の良さを褒め続けた。
「あ、阿愿。座って待っていていただけると助かります……」
「あらゆる角度から見ていたいのだ。緑雨が私の為に料理する姿を」
何を言っても無駄だと判断した緑雨は、そのまま調理を続け、出来上がったものを椀によそって湯匙とともに懐愿に渡した。
「おそらく悲しいくらいに美味しくないので期待しないでください。薬膳としての効果には自信があります」
「わあ、素敵。なんと、嬉しい。舞い上がってしまう。語彙力が無くなるな」
懐愿はまるで宝物でも愛おしむように椀を持ち、粥を一口、湯匙で掬って食べた。
「……こ、個性的な味だな」
「身体を温める作用のある昏石姜に辛参を加え、さらに疲労回復を促す生薬を足しました」
緑雨は雛菊のように微笑みながら自分の椀に粥をよそった。
「その、あー……」
不味くはない、だが、いくら緑雨のことが大好きでも肯定できる味ではない、と、懐愿は思った。
「こうしよう。次からは私が作る。戦場では限られた食材で腹を満たし士気を保つ必要があるから、料理は得意なんだ」
懐愿が優しさと少しの同情を含んだ笑顔を緑雨に向ける。
すると、緑雨は口に運んだ粥を飲み込み、頷いた。
「ですよね。両親はわたしが幼い頃からあらゆることを褒めてくれましたが、料理だけは、無理しなくていいんだよ、と」
緑雨は懐愿に「残していいですからね」と言い、黙々と自分の分を食べすすめた。
「人には得手不得手がある。料理が不得意なくらい、何でもない。気にしなくていいんだよ、緑雨。作ってくれたことが嬉しいのだから」
懐愿は不思議な味のする粥を完食し、鍋に残っている分も全て平らげた。
「兄達ですら完食できないわたしの料理を……」
「ごちそうさま。ちょっと安心した。緑雨が何でも完璧にこなしてしまったら、私が尽くす隙が無くなってしまうからね」
懐愿は食べ終わった緑雨の食器も受け取ると、鍋などと一緒に空から出した水筒の水で綺麗に濯ぎ、拭いてから緑雨に渡した。
「緑雨の言う通り、薬膳としての効果は絶大だ。冷えを感じない。身体の芯まで温かいよ」
外套を広げ、その場で一回転しながら微笑む懐愿。
緑雨は心の柔らかい部分をそっと撫でられたようなくすぐったい暖かさに、胸がいっぱいになった。
「お、寒くないのは私達だけではないようだ」
小枝にとまる淡い黄色をした小鳥が、歌うように鳴いている。
近付こうとする懐愿。
緑雨は素早く剣を抜くとわずかに指先を切り、出てきた血液を凍らせ、暗器のように小鳥に当てて切り裂く。
小鳥は頭部と胴体が瞬時に別れ、小枝から地面へと落下した。
恨み言のような奇怪な断末魔を吐き捨てながら。
「緑雨、今のは……」
「あの鳥は蠱鳥の一種です。美しい姿や赤子の声など、人間が愛らしいと感じる要素を持って自らの元へ誘い出し、その肉を喰らう精魅です。気を付けてください」
緑雨は周囲を見渡し、他にもいないかすばやく確認する。
「全く分からなかった。どう見分ければいい?」
「蠱鳥は脚が一本しかなかったり、多眼だったりと、通常の鳥とは少し違う特徴を持っています。個体が小さいと近付かなければわかりにくいかもしれませんが……。そのうち嫌でも慣れます」
「わかった。気を付ける」
緑雨は「行きましょう」と馬の手綱を木から外し、懐愿を乗せて自分ももう一頭に跨った。
(昼間から妖魅が現れるなんて……。それも、『片脚』の蠱鳥。前に来たときはこんなことなかったのに)
あらかじめ決めていた比較的安全な道を進むも、一度芽生えた嫌な予感は拭えない。
緑雨は周囲への警戒を強めた。
身体を巡る、何の証拠も残さずに人を殺せる暗器を湛えながら。