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第五集:警戒 第三部

 緑雨リュユーは卓に立てかけてある剣を手に取り、懐愿フゥァイユェンに渡した。

「昼間、取り出したのを見た時は不思議な光を含んだ白い鞘だったような」

「目立つので黒い革の帯を巻いたんです」

「美しいのに、もったいない。抜いてみても?」

「どうぞ」

 懐愿フゥァイユェンが柄を掴み、鞘から引き抜くと、そこには何もなかった。

「えっ、刃がないぞ」

 柄だけを持ち、懐愿フゥァイユェンは訝しげな表情で鞘の中を見た。

「この剣、氷彩ひょうさいはわたしの……」

 緑雨リュユーは一瞬口ごもったが、取り消すように話し続ける。

「えっと、わたしの仙力せんりょくに反応して刃の形を変えるんです」

「刃の形が変わる……?」

 緑雨リュユー懐愿フゥァイユェンから渡された氷彩ひょうさいを持ち、柄を鞘に戻してから引き抜いた。

 懐愿フゥァイユェンの大きな目が見開かれ、その視界に豊かな色彩が満ちていく。

「刃が! すごい……。これは、なんと素晴らしいのだろう。まるで透き通る彩雲のようだ」

 現れたのは諸刃もろはの剣。

 それは光を含み、透明度のある乳白色の中に様々な色を湛えている。

 反射する煌めきが緑雨リュユーの目を彩り、その姿が余計に懐愿フゥァイユェンの胸を高鳴らせた。

「長さを変えたり、刀にしたり……。いつも最適な形にして戦闘に臨んでいます」

「素敵だ。これは緑雨リュユーしか扱うことが出来ない特別な剣なのだな」

「武芸の修行で木製の軽い剣を卒業した日に、父から貰いました」

 緑雨リュユーは感嘆している懐愿フゥァイユェンを見つめながら、剣を授かった日の父親の顔を思い出していた。

――「氷鳴律ひょうめいりつを治してやれない代わりに、そののろい緑雨リュユーを守る力になることを願う」

 そう言って、悲し気に微笑む父の顔を。

「この剣は仙郷で作られたものなのか?」

 懐愿フゥァイユェンの声に意識を現実に戻し、緑雨リュユーは頷いた。

「そうです。祖父が親友の刀匠に頼んで作ってもらったと聞いています」

「さすがは玉羽江湖ぎょくうこうこ。知るほどに興味深くなる」

 懐愿フゥァイユェンは頷きながら、ふと動きを止め、緑雨リュユーを見る。

「そういえば、ずっと思っていたのだけれど……、江湖と玉羽江湖ぎょくうこうこは何か違うのかい? もう誰が言ったか忘れたけれど、『玉羽ぎょくうあかし』という言葉が気になって」

「ああ、それはこれのことです」

 緑雨リュユーは空を遊泳する時に纏うように現れる新緑色の羽衣はごろもを見せた。

「なんと!」

「霊力のある人が高く長く遠く跳躍するように、仙力せんりょくのある仙士せんしはある程度空を自由に飛び回れます。その時に出現するこの羽衣のことを『玉羽ぎょくう』と呼ぶのです」

 懐愿フゥァイユェンは腕を伸ばし、触感の無いそよ風のような羽衣に手を添えた。

「美しい。緑雨リュユーにとても似合っている。まるで初夏の風に揺れる鮮やかな青紅葉のようだ」

 緑雨リュユーは照れながら羽衣をゆっくり消した。

 懐愿フゥァイユェンは姿勢を戻し、何の感触も残っていない自身の手を見て好奇心を募らせた。

「神仙の血を引く者なら誰でも持っているのかい? ……いや、そもそも、神仙はどこから来て江湖に根付くことになったのかな?」

 知識欲に火がついた懐愿フゥァイユェンの煌めく目に圧倒されながらも、緑雨リュユーはそれを嬉しく感じた。

「なんでも、太極天たいきょくてんの怒りを買い、天界から落とされた四つの一族が江湖に降り立ったとか。確か……、五葉ウーイェ族、世杉シーシャン族、黒花ヘイファ族、祥亀シィァングゥイ族です。彼らは武林が勢力を広げる中、隣接する場所に仙郷を開き、それを玉羽ぎょくうと称して暮らし始めたそうです。それから徐々に人間と交わるようになり今に至ると聞きました」

 懐愿フゥァイユェンは頷きながらさらに質問を投げかける。

「神仙と結婚した人間の子供は全員仙士せんしになるの?」

「そうですね。子供を授かることが出来れば、産まれてくるのは仙士せんしということになります」

「授かることが出来れば、ということは、難しいのか?」

 緑雨リュユーは空になっている懐愿フゥァイユェンの杯に茶を注ぎながら答える。

「はい。仙力せんりょくは人間にとって影響が大きく、禍福をもたらす力です。男性側が人間の場合は、その子種が女性の身体に流れる仙力せんりょくに耐えきれず死滅したり、女性側が人間の場合は、子種が持つ仙力せんりょくが強すぎて受精出来なかったりということが多いです。なので、人間との婚姻では仙子せんしが生まれる確率は限りなく低いということになります。もちろん、子供が出来なくても仲良く暮らしている方々もいます。人間の子供を養子にとっている家庭もありますよ」

「なるほど。だから内界にその勢力が広がらないのだな。全ての一族の末裔は今も皆仙郷に住んでいるのかい?」

 懐愿フゥァイユェンは杯を持ち上げ、味わうようにゆっくりと飲み干した。

「四つの一族の内、黒花ヘイファ族と祥亀シィァングゥイ族は千年以上経っても天界から堕とされたことを受け入れられず、どこかに去り、その後の消息は誰にもわからないらしいです」

「それは少し気になるな」

 緑雨リュユーは先ほどからずっと湯気を吹き出し続けている茶釜の蓋を開け、茶器に湯を足した。

「聞きたいことは山ほどあるが、一度に聞いてしまったらもったいない気がする。緑雨リュユーも説明ばかりで疲れただろう。他のことを話そうか」

「では、明日の行程について論じましょう」

 二人は地図を広げながら進む道や手段を話し合い、本当に徹夜することに。

 気付けば空の昏さはやわらぎ、窓の外が白み始め、鶏の鳴き声が聞こえてきた。

「朝になってしまいましたね」

「私はとても好い気分だ。緑雨リュユーと一夜を明かしたのだからな」

「ううん、言い方が少し、なんというか……、あれです」

「事実だ」

 晴れやかな笑顔を浮かべる懐愿フゥァイユェン緑雨リュユーは苦笑を返し、二人はそれぞれ身支度を始めることに。

 緑雨リュユーは借りた時に一度しか入らなかった部屋へ戻って室内を見渡し、次からは複数人で宿泊することを想定して整えられている部屋を選ぼうと決めた。

 顔を洗い、髪を高い位置で結い直し、休むために着ていた楽な深衣しんいを脱ぐ。

そしてしっかりとした生地の黒い戦袍せんほうに着替えた。

 差し色の深緑が漆黒の威圧感を和らげている。

 腰の左側に氷彩ひょうさいを佩き、目元と左頬までを隠せる仮面をつければ支度は完了だ。

 緑雨リュユーは部屋を出て懐愿フゥァイユェンの元へ向かった。

阿愿アーユェン、何かお手伝いしますか?」

「大丈夫。もう出るところだ」

 扉が開き、中から出てきた懐愿フゥァイユェンは、緑雨リュユーの姿を見て動きを止めた。

「な……。何故麗しい顔を隠すんだ!」

「今日中には闇市を運営している者達の縄張りに入れそうなので、顔を隠しておこうかなと」

緑雨リュユーの可憐な顔を見ることが出来ずに旅をするなんて悲劇としか言いようがない」

 落ち込む懐愿フゥァイユェンに、緑雨リュユーは今度こそ言葉を慎重に選んで言う。

「安全な場所では外します。つまり、阿愿アーユェンだけがわたしの素顔を見ることが出来るということですね」

 春風に巻き上げられた桜の花弁が満月を彩るような笑顔を浮かべ、懐愿フゥァイユェンはゆっくり頷いた。

「それならいい。とてもいい」

 二人は階段を下りて客桟きゃくさんの主人に部屋を空けたことを告げ、外に出た。

「少し積もっていますね」

 地面を覆う白くささやかな冷たさが、まだ薄暗い空から太陽が昇ってくるのを待っている。

緑雨リュユーは外套を着ないのか?」

「寒さには強いので」

 緑雨リュユーは馬小屋へ行き、預けた二頭を受け取ると、懐愿フゥァイユェンが待つ客桟きゃくさんの正面へ回った。

「では、行こうか」

 懐愿フゥァイユェンは純白の外套をひらりとなびかせ、馬に乗り込む。

 馬上から、馬に乗る瞬間の緑雨リュユーを見ていた懐愿フゥァイユェンは、違和感を覚えた。

 自分も馬も、道行く人々も皆息が白いのに、緑雨リュユーだけは目立つほどの色がついていない。

 何故なのか問おうにも、言葉が浮かんでこない。

「……えん、阿愿アーユェン? どうかしましたか」

「あ、いや……。なんでもない。大丈夫だ」

 二人は馬が転倒しないよう気を付けながら速度を上げ、先を急いだ。

 目指すは青灯せいとうちん

 首都華芳かほうから一番近い闇市がある。

 怪異の多い小高い丘をいくつか越えなくてはたどり着けないということもあり、天子の耳目となる者達の監視が届きにくい。

 だからこそ、身分を隠して盗品を売買する者が集まりやすい地となっている。

 緑雨リュユー懐愿フゥァイユェン二刻四時間程駆け、辰の刻八時を迎えた。

 太陽が空気を温めるも、風は冷たく、なかなか雪は解けないでいる。

「休憩しましょう」

 二人は馬から降り、少し開けた場所で立ち止まった。

 緑雨リュユーは馬を木に繋ぐと、くうから調理道具や食材を取り出し、粥を作り始める。

「手料理!」

 懐愿フゥァイユェン緑雨リュユーにまとわりつきながらその手際の良さを褒め続けた。

「あ、阿愿アーユェン。座って待っていていただけると助かります……」

「あらゆる角度から見ていたいのだ。緑雨リュユーが私の為に料理する姿を」

 何を言っても無駄だと判断した緑雨リュユーは、そのまま調理を続け、出来上がったものを椀によそって湯匙ゆさじとともに懐愿フゥァイユェンに渡した。

「おそらく悲しいくらいに美味しくないので期待しないでください。薬膳としての効果には自信があります」

「わあ、素敵。なんと、嬉しい。舞い上がってしまう。語彙力が無くなるな」

 懐愿フゥァイユェンはまるで宝物でも愛おしむように椀を持ち、粥を一口、湯匙ゆさじで掬って食べた。

「……こ、個性的な味だな」

「身体を温める作用のある昏石姜こんせききょう辛参しんじんを加え、さらに疲労回復を促す生薬を足しました」

 緑雨リュユーは雛菊のように微笑みながら自分の椀に粥をよそった。

「その、あー……」

 不味くはない、だが、いくら緑雨リュユーのことが大好きでも肯定できる味ではない、と、懐愿フゥァイユェンは思った。

「こうしよう。次からは私が作る。戦場では限られた食材で腹を満たし士気を保つ必要があるから、料理は得意なんだ」

 懐愿フゥァイユェンが優しさと少しの同情を含んだ笑顔を緑雨リュユーに向ける。

 すると、緑雨リュユーは口に運んだ粥を飲み込み、頷いた。

「ですよね。両親はわたしが幼い頃からあらゆることを褒めてくれましたが、料理だけは、無理しなくていいんだよ、と」

 緑雨リュユー懐愿フゥァイユェンに「残していいですからね」と言い、黙々と自分の分を食べすすめた。

「人には得手不得手がある。料理が不得意なくらい、何でもない。気にしなくていいんだよ、緑雨リュユー。作ってくれたことが嬉しいのだから」

 懐愿フゥァイユェンは不思議な味のする粥を完食し、鍋に残っている分も全て平らげた。

「兄達ですら完食できないわたしの料理を……」

「ごちそうさま。ちょっと安心した。緑雨リュユーが何でも完璧にこなしてしまったら、私が尽くす隙が無くなってしまうからね」

 懐愿フゥァイユェンは食べ終わった緑雨リュユーの食器も受け取ると、鍋などと一緒にくうから出した水筒の水で綺麗に濯ぎ、拭いてから緑雨リュユーに渡した。

緑雨リュユーの言う通り、薬膳としての効果は絶大だ。冷えを感じない。身体の芯まで温かいよ」

 外套を広げ、その場で一回転しながら微笑む懐愿フゥァイユェン

 緑雨リュユーは心の柔らかい部分をそっと撫でられたようなくすぐったい暖かさに、胸がいっぱいになった。

「お、寒くないのは私達だけではないようだ」

 小枝にとまる淡い黄色をした小鳥が、歌うように鳴いている。

 近付こうとする懐愿フゥァイユェン

緑雨リュユーは素早く剣を抜くとわずかに指先を切り、出てきた血液を凍らせ、暗器のように小鳥に当てて切り裂く。

 小鳥は頭部と胴体が瞬時に別れ、小枝から地面へと落下した。

 恨み言のような奇怪な断末魔を吐き捨てながら。

緑雨リュユー、今のは……」

「あの鳥は蠱鳥こちょうの一種です。美しい姿や赤子の声など、人間が愛らしいと感じる要素を持って自らの元へ誘い出し、その肉を喰らう精魅もののけです。気を付けてください」

 緑雨リュユーは周囲を見渡し、他にもいないかすばやく確認する。

「全く分からなかった。どう見分ければいい?」

蠱鳥こちょうは脚が一本しかなかったり、多眼だったりと、通常の鳥とは少し違う特徴を持っています。個体が小さいと近付かなければわかりにくいかもしれませんが……。そのうち嫌でも慣れます」

「わかった。気を付ける」

 緑雨リュユーは「行きましょう」と馬の手綱を木から外し、懐愿フゥァイユェンを乗せて自分ももう一頭に跨った。

(昼間から妖魅もののけが現れるなんて……。それも、『片脚』の蠱鳥こちょう。前に来たときはこんなことなかったのに)

 あらかじめ決めていた比較的安全な道を進むも、一度芽生えた嫌な予感は拭えない。

 緑雨リュユーは周囲への警戒を強めた。

 身体を巡る、何の証拠も残さずに人を殺せる暗器を湛えながら。


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