休憩をはさみながら三刻後、二人は青灯鎮手前の丘までたどり着いた。
ここまでの道のりの中でも一番草木が深く、まだ昼間だというのに薄暗い。
「阿愿、そのまま町まで走り抜けてください。客桟で合流しましょう」
優しい声色の中に奔るわずかな緊張感。
「説明してくれ。納得できなければ私はどこにもいかない」
緑雨は手綱を強く引いて馬を止めると、飛び降りながら鞘から剣を抜いた。
腐った血液の臭いに、腹が減ったと喘ぐような赤子に似た鳴き声。
乾ききった冷たい空気に、邪悪な気配が湿度のように増していく。
「ここまで来ると、妖魅を巻くことは出来ません。ここで倒さねば、青灯鎮を往来する人々が危険なことに」
「援護が必要だろう」
懐愿もすぐに馬を止めて地面へ降り立つと、空から大剛弓と矢筒を取り出した。
「心配なら、見ると良い」
緑雨の顔の横を、疾風が渦となって通り過ぎ、視界に薄っすらと映る程度の遥か遠い距離にいる妖魅の額を撃ち抜いた。
「人間の頭とは違い、あまり派手に飛び散らないな」
懐愿はすでに二本目の矢をつがえ、狙いを定めている。
「好きに戦ってくれ。初めて弓を手にした日から今まで、敵に当たらなかったことなど無いからな」
霊力を帯びた弓から放たれる矢は、懐愿が獲物と定めたモノへまっすぐと飛んで行く。
その目は鋭く、普段の艶やかさを感じないほど、好戦的。
上がった口角は、戦いを喜んでいくのではなく、矢で貫けないほどの力を持つ挑戦者を求めているよう。
緑雨は懐愿とその軍が常勝軍だと言われている理由が少しわかった気がした。
戦場で大将軍のこの目を一度でも見れば、仲間の士気は自然と上がるだろう。
緑雨は剣を手に、駆け寄り飛び込んでくる妖魅を次々と斬り伏せていく。
飢えた大きな牙に、引き裂くことに特化した爪を持つ醜悪な手。
人間の少年期から青年期ほどの体長に、異形の身体。
瞳孔は横に広がり、姿形からは想像もできないほど美しい桃色の虹彩が光る。
緑雨は次々と襲い掛かってくる妖魅の胴を斬り上げ、頭を斬り落とす。
足元から宙へ仙刃波を放ち、数十体の妖魅をまとめて吹き飛ばす。
大木に強く頭部を打ち付けた妖魅の割れた頭蓋から、脳とともに悪臭のする体液が流れ出る。
強さで言えば中程度の妖魅の群れ。
人語を理解出来なくとも、仲間内の意志疎通に必要な知性はあるが、武器や防具を身に着ける知恵はない。
緑雨は周囲を取り囲む妖魅の中心で片脚を伸ばししゃがむと、回転して妖怪の脚を斬り落としていった。
体勢を崩したそれらの間を舞うように駆け、頭と銅を斬り離していく。
緑雨は剣についた体液を振り落とし、残りわずかとなった妖魅達を見渡す。
戦うほどに身体は熱を生み出すのに、仙力はひどく冷たくなっていく。
身体の中で霊力との均衡を保ち、氷鳴律の症状を抑えながら剣を振るう。
口から漏れ出る息が、周囲の温度よりも低く、白くなっていく。
「最後の一体だ」
懐愿の嬉々とした声のあと、放たれた矢が妖魅の心臓を撃ち抜いた。
緑雨は怪異の気配が無くなったことに安堵し、懐愿の側に駆け寄って行った。
「お疲れさまでした。阿愿はわたしが思っていたよりもずっとずっと強いのですね」
「このくらいなんてことないよ。それよりも、緑雨の戦い方の方が驚きだよ。想像していたよりも派手だった」
視界を舞う、煌めく緑色の風。
懐愿は精神的にそう思ったのではなく、緑雨の周囲には見覚えのある細かな光が輝いていた。
まるで、身を引き裂くほど凍てついた空気の中を朝陽が通るときに見える、舞う氷の粒、氷霄柱のように。
「香霧山荘の武術のせいかもしれません。従兄の綺桃は体力が無尽蔵なのでわたしの数倍は派手ですよ」
「それは見ごたえがありそうだ」
懐愿は先ほどまでの美しい獣のような眼光とは打って変わり、いつもの優雅な目に戻っている。
「可愛い緑雨の顔に悍ましい妖魅の血が……」
緑雨は懐から手巾を取り出し、顔を拭った。
「服は大丈夫そうだが……」
「黒は返り血が目立たないので。阿愿に怪我がなくて何よりです」
「私に怪我を負わせるほど近付いて来た妖魅は一匹もいないからな。すべて緑雨のおかげだ」
二人は視界に映る少し遠い場所に逃げていた馬を迎えに行き、再び跨って青灯鎮へ向かった。