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第六集:援護 第二部

 高台から見下ろすと、その光景はどこの土地でもほとんど同じ、珍しいものではなかった。

 壁に囲まれた都城形式の町の周囲にいくつもの集落が点在し、その間を広大な田畑や小さな森、川が埋めている。

 明かりが灯る城壁外村落を目指し駆けていく。

 ある地点に入った瞬間、肌の上を石鹸の泡が滑って行くような、すぐに消える薄い膜を潜った感覚が二人を包んで消えた。

祝巫しゅくふの防衛範囲に入ったようです」

「少し大げさな気がする。ここまで守りの方陣を強く張るのは、頻繁に怪異が起こる丘のせいだろうか。それとも……」

「闇市で扱っている物のせいだと思います。祝巫しゅくふの方々には会ったことがないので本当のところはわかりませんが、ここの闇市には呪物も多く出品されています。それらがちん内に怪異を呼び込まないようにしているのではないでしょうか」

「自業自得ということか。だが、祝巫しゅくふがそれを見越しているということは、闇市には官府かんふも関わっていそうだな。勅命で怪異から都市を守るのが仕事であるはずなのに、邪を内に抱えるとは」

 懐愿フゥァイユェンは担いでいた大剛弓だいごうきゅうと矢筒をくうへしまうと、いつものおうぎを手にした。

「羽振りがよく見えるような客桟きゃくさんを探そう。それか、官府かんふにも顔が利くという印象を与えるために駅站えきたんに泊まろうか」

「ううん……。客桟きゃくさんにしましょう。万が一駅站えきたん阿愿アーユェンの素性を知っている兵士に会ったら面倒なので」

「たしかに。じゃぁ、もしかして……」

「はい。阿愿アーユェンは封印します。今から、少爺しゃおいぇです」

 懐愿フゥァイユェンは扇を広げ、口元を隠しながら大袈裟に落ち込んで見せた。

「天意とはかくも無情な……」

「違いますよ。二人で決めた規則です」

 緑雨リュユーにばっさりと感情を切り捨てられた懐愿フゥァイユェンは、「いいもん。御曹司の演技なんてお安い御用だよ。銭袋、渡しておくからね」と拗ねた。

「そう言えば、緑雨リュユーを呼ぶときはどうする? そのまま呼んだら、さすがに気付く人も出てくると思うのだけれど」

「視線とか身振り手振りで命令していただければ察しますよ」

「そんな……。そんなに冷え切った関係性なの?」

「御曹司と護衛にそこまで仲が良い印象はありませんが……」

 懐愿フゥァイユェンが無言で馬から降りたので、緑雨リュユーも降りる。

 緑雨リュユーは二頭分の手綱を引き、眉間にしわを寄せながら考え事をしている懐愿フゥァイユェンの後ろを歩いていく。

「偽名を決めるのはどう?」

 突然振り向いた懐愿フゥァイユェンはとても嬉しそうで、期待を込めた目で緑雨リュユーを見つめている。

「あ、あー……。『緑雨リュユー』はそう珍しくない名前なので、このままで大丈夫だと、思い、ます。どうしても隠した方が良さそうな時は、『小雨シァォユー』と呼んでください」

「む、そうかぁ……。じゃぁ、設定は変えよう! 仲が良い設定にする。仕事じゃなくても二人だけで遊歴に出るくらい、仲良しの設定だから!」

 圧が強い。

 懐愿フゥァイユェンは手綱を握る緑雨リュユーの手を両手で包み、微笑んだ。

「しょ、承知しました」

 満足げに頷く少爺しゃおいぇに、護衛の少年は困ったように微笑んだ。

 二人は馬を壁外の厩舎に預け、徒歩で町の中へ入って行く。

 立派な門が聳え立つ。

 ふんだんに鉄が使われていることから、青灯せいとうちんが経済的に潤っていることがわかる。

「今まで気にしたこともありませんでしたが、門にもしっかり祝巫しゅくふ破魔紋はまもんが彫られています。妖魅もののけの中でも妖精は鉄が苦手ですから、相当守備に力を入れているようですね」

「もしかして、他にも何か怯える理由があるのか……?」

 二人は顔を見合わせ頷くと、周囲に注意しながら壁の内側へ進んで行く。

「これは……」

 陽も落ち始め、町全体を夕闇が包むはずなのに、頭上や建物の軒先を彩る数多の灯篭がそれを許さない。

「一見するとあたたかな灯りで満たされた美しい光景だが、これが青灯せいとうちんの民心を覆う恐怖心の表れだとすればどうだろうな」

 懐愿フゥァイユェンの言葉にうなずき、緑雨リュユーは道行く人々を眺めた。

「常に光の中にいないと拭えない不安とは、一体何なのでしょう」

 無邪気に駆け回る子供達と、それを慈しむように見つめる大人達。

 しかし、老年の人々は時折ふと我に返ったように顔をこわばらせている。

緑雨リュユー、今日の宿はあの客桟きゃくさんにしよう」

「わかりました」

 二人が中へ入ると、扇を優雅に開きながら立つ懐愿フゥァイユェンを見て客桟きゃくさんの主人が駆け寄ってきた。

公子ごんず、ご用伺いにまいりました」

 主人に向かって微笑む懐愿フゥァイユェンの横で、緑雨リュユーがそれらしく振舞う。

「最上の部屋を三泊。布団は二組で一つは長椅子に。湯浴みは一刻半三時間後。料理は全て部屋に頼む」

 緑雨リュユー客桟きゃくさんの主人に、懐愿フゥァイユェンから受け取ってある絹に総刺繍が施された豪華な銭袋から金珠きんしゅを出して渡した。

「あやや! すぐにお釣りをお持ちします」

「必要ない。それより、早く部屋の支度をしてもらいたい」

「かしこまりました! すぐに準備いたしますので、お好きなところにおかけになってお待ちください。ご宿泊の間、いつでもなんでもお申し付けくださいね!」

 主人は数名の従業員をともない、階段を駆け上がって行った。

 緑雨リュユー懐愿フゥァイユェンを綺麗に整えられた卓に連れて行き、二人で席に着いた。

「少しそっけない緑雨リュユーが見られるなんて。あまりに凛々しくて目の保養になった」

 懐愿フゥァイユェンの羨望の眼差しが顔に突き刺さる。

「それよりも、この大金は……? 銅銭どころか銀子ぎんすすら入っていないのですが」

 用意されている茶器から茶を注ぎ、懐愿フゥァイユェンと自分の前に置く。

「たくさん持っていたら重くなってしまうんだもの。金珠きんしゅが一番価値も手ごろで持ち歩きにも最適だと思わない? 御曹司っぽいし」

「宿代だからまだいいものの、酒肆しゅしや屋台での食事代では使っちゃだめですよ。受け取る側が困ってしまいます」

 緑雨リュユーのもっともな言い分に、懐愿フゥァイユェンは口に扇を当てて頷いた。

「明日両替しないと」

「わたしが出すので大丈夫ですよ」

「だめ。緑雨リュユーには一厘いちりんだって払わせないから」

 懐愿フゥァイユェンは杯を持ち、そっぽを向いて茶を飲んだ。

「わかりました。金珠きんしゅ一つ分くらいだったらここでも両替してくれると思います」

「でも、両手いっぱいの銀子ぎんすになってしまうな。そうしたら、緑雨リュユーの荷物が……」

「大丈夫です。使わないときはくうにしまっておくので」

 緑雨リュユーは「その方が安全ですから」と微笑んだ。

 四半刻三十分後、部屋の準備が整ったと客桟きゃくさんの主人が呼びに来た。

 二人は主人の満面の笑みに見送られ、従業員に案内されて階段を上り、二人で宿泊するには広い贅沢な部屋へ入った。

「この部屋の調度品は全て皇帝家御用達の職人に頼んで作っていただいているんですよ」

 従業員は丁寧に部屋とこの後運ばれてくる食事の説明をし、深く頭を下げて持ち場へ戻って行った。

「ということは、実家と同じってことだな」

 懐愿フゥァイユェンが悪戯っ子のような不敵な笑みを浮かべて言うので、緑雨リュユーは笑ってしまった。

「さすがです、少爺しゃおいぇ

「だろ?」

 二人は笑いながら上等な円座わろうだに座り、卓に用意されている杯に茶を注いだ。

 ほどなくして運ばれてきた料理は豪勢で、合わせて飲む酒はかんをしてある。

 従業員は満面の笑みで下がっていく。

「お酒は全部少爺しゃおいぇが飲んでください」

緑雨リュユーはお酒苦手なの?」

「はい。薬ならいくら苦くても辛くても飲めるのですが、お酒はちょっと……。薬酒も避けています」

「では、宴席では必ず私の隣の席を用意しよう。緑雨リュユーが飲まなくても良いように、私が盾になる」

 温かい酒で頬がほんのり桜色に染まる懐愿フゥァイユェンが可愛くて、緑雨リュユーはつい口元が緩んだ。

「ありがとうございます。少爺しゃおいぇは強いんですか?」

「私は少し顔が赤くなる程度で、まったく酔わないよ。酒盛りした直後でもすぐに戦場で指揮できるくらい」

「わあ、それは強いですね」

「母の実家、ヂョウ氏はみんなそんな感じだよ。母も姉上も酔っているのを見たことがない。ただ、兄上は父に似て多少酔ってしまうけれど」

 まるで普通の家庭のように聞こえるが、懐愿フゥァイユェンが話しているのは皇帝と皇后、公主と皇太子のことだ。

 緑雨リュユーは目の前で嬉しそうに家族について話す友人を見て、余計に隠さなくてはならないと思った。

 大切な人のことを語る柔らかな優しい表情に、一滴の墨も落としたくない。

氷鳴律ひょうめいりつのことは、隠し通さなきゃな……)

 両親や兄達の顔が思い浮かぶ。

 大丈夫だよ、平気だよ、耐えられるよ。

 どんな言葉も、家族を安心させてあげられない。

 神仙の医書に記されている氷鳴律ひょうめいりつの項目に書かれている文だけでも苦しめてしまうのに、発作が起こるたびに傷つけてしまう。

「……ゆー? 緑雨リュユー?」

 懐愿フゥァイユェンに頬をつつかれ、いつの間にか下を向いていた頭を起す。

「先に寝る?」

「いえ、大丈夫です。ごめんなさい。なんかぼーっとしちゃって」

「悲しそうな顔をしていたから心配になったんだ。悩みがあるのなら、知りたい。解決のために私にも手伝えることがあるのなら、聞かせてほしい」

 誰もが求めうらやむ大切な人からの献身の手を、緑雨リュユーは掴むわけにはいかなかった。

 振り払う勇気もなく、繋ぐ度胸もない。

「もしかして、戦闘中に息が白くなっていたのと関係があるのか?」

 緑雨リュユーは手に持っていた杯を落とし、懐愿フゥァイユェンを映す視界が鮮明に、そして淡くなるのを感じた。

 大きく心臓が脈打ち、用意していなかった言葉が動揺となって身体中に広がっていく。

 発作でもないのに、胸が苦しい。

「すまない。話せないことなら、聞かないでおく。でも、いつか私になら教えても良いって思えたら、その時は話してほしい」

 懐愿フゥァイユェンは微笑むと、話題を変え、何事もなかったように緑雨リュユーに話しかけ続けた。

 皿が次々と空き、食事を終えると、ちょうど湯浴みの時間になった。

 従業員が案内に来て、そのまま食器を片付けていった。

 懐愿フゥァイユェン緑雨リュユーの順で湯浴みを済ませ、暖められた部屋で寝るまでの時間を過ごす。

「明日はいよいよ闇市だな」

「そうですね。闇市が開かれている建物が壁外の深い竹林の奥にあるので、道中気を付けて行きましょう」

「いくつかの地点に監視を置いているだろうし。仕方ないから少爺しゃおいぇらしくするよ」

「とてもお上手です。身分の証明に、闇市の入り口でこちらを提示してください」

 緑雨リュユーは黒に近い藍色の符牌ふはいを取り出し、懐愿フゥァイユェンに渡した。

 それは楕円形で、中心に一輪の曼殊沙華が彫ってある。

「これは香霧山荘こうむさんそうが二年前に壊滅させた盗賊団、青血華せいけつか符牌ふはいです。まだ彼らの生死については知れ渡っていないため、わたしたちは首領から符牌ふはいと買い付け権を預かっている悪徳商家の御曹司と護衛、という設定で潜入します」

「壊滅させたことについてものすごく質問したいが、今は我慢しておく。設定については了解。受け答えで気を付けることはある?」

「いくつか用語があるので、こちらをご覧ください」

 緑雨リュユーは闇市での取引で最低限必要な言葉を書いた紙を渡した。

 懐愿フゥァイユェンはそれに目を通し、「なかなか洒落た言い回しをするんだな」と呟いた。

「今回探すのは春分と秋分の星図が書かれた墓誌、または墓誌蓋ぼしがいの写しか」

「そうです。三百年ほど前の風習では、一日の長さが同じになる春分と秋分をあの世とこの世の境が曖昧になり、混ざり合うと考えられていたので、その日の星図を刻んだそうです」

「なるほどね。ちなみに、ちなみにだけれど、その壊滅させたとき緑雨リュユーは……」

「参加していましたよ」

「やっぱり!」

 懐愿フゥァイユェンの大きな目に豪華な燭台で燃える蠟燭の火が映り、煌めいている。

「その盗賊団は、元は武林の一派だったんです。それが、先々代の掌門しょうもんが帝位の後継者争いに加担し、与していた皇子が倒されたと同時に責任を問われ、内界にも外界にも身の置き場を失くし、そのまま盗賊家業に手を染めてしまったらしいです」

 淡々と話す緑雨リュユーとは裏腹に、懐愿フゥァイユェンの目の中で蝋燭の灯が揺れる。

「そんなことが……。だが、江湖の一派がどうして党争に関わることになったんだい?」

「商売の縄張りにしていた州の節度使と癒着があったみたいです。その節度使が皇子の従兄弟だったと聞いています」

「ああ……、そういうことか。軍方の支援は貴重だからな。そこに江湖の勢力も加えることが出来たら、党争に有利に働くことも増えよう。血のつながった兄弟であっても、帝位を狙い争うこともある。それには必ず悲劇がついて回るものだ」

 懐愿フゥァイユェンは大きめの溜息をついた。

「今でも官府かんふとつながりのある一派はありますからね。もちろん、誠実な付き合いをしている一派の方が多いですよ。……多分。姻戚関係にあるところもあるようですし。他国では、一個人として朝廷で要職についている人もいるとか」

 懐愿フゥァイユェン緑雨リュユーをまっすぐと見つめ、呟く。

「私達の関係が後ろめたいものになることは絶対にないから、ずっと仲良くしてくれると嬉しい」

 緑雨リュユー懐愿フゥァイユェンに向かって柔らかな微笑みを浮かべ、言う。

「改まって言わなくても、わかっていますよ」

「ふふ。それならいい」

「さぁ、明日は忙しくなりますから、もう寝ますよ」

「そうしよう。御曹司役の腕の見せ所だ」

 二人は幾つかの蝋燭はそのままに、それぞれの布団に入った。

 緑雨リュユー懐愿フゥァイユェンが寝入ったのを確認し、手のひらの上で氷の鎖を作ると、扉に封をした。

 もし誰かが悪意を持って近付けば、鎖が震え、緑雨リュユーの耳だけに音が聞こえるように。



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