「さて」
器屋が一言切り出す。
「朝凪の町の時間軸が、ぶれています」
器屋は空を示し、言う。
朝凪の町特有の朝焼けが、明けてきているらしい。
『そろそろネネと戻らないといけないですね』
「そういうことです」
器屋は重々しくうなずいた。
ネネもうなずく。
戻らないといけない。
時間軸が全部同じわけではないが、
ネネが浅海の町に戻るのも必要だ。
ネネは朝凪の町では異邦人。
帰るところは別にあるのだ。
「それじゃ戻ろうか、ドライブ」
『はいなのです』
ネネが野暮ったい腕時計のような、端末をいじる。
カチカチと音を立てて、設定を見る。
エンターを押そうとする。
そのとき、何かが吹いた気がした。
風か、風には意思がない。
何か風とは違う意思のようなものを感じる。
これは一体なんだ!
ネネは目を閉じる。
ドライブが肩にしがみついているのを感じる。
風の意思がネネの中をめちゃめちゃにするような感じがする。
腐ってしまえ、壊れてしまえと意思が言っている。
ネネは目を閉じたまま、必死に意思と戦う。
そんなことしたくない。
腐りたくないし壊れたくもないよ。
ネネは心の中で戦う。
風のような意思はあざ笑う。
そんなちっぽけな一人で何が出来る。
ネネの心の奥底がすっと冷えた感じがした。
なんだか知らないけれど、頭が冷えたような感じに似ていた。
そのあと、怒りでかっと熱くなった。
判断力が冷静なのに、怒りで自分さえも燃やすほど、熱くなった気がした。
「あんたらが何か知らないけど」
ネネは意思に向かって言い出す。
「あたしは後悔も負けるのも大嫌いだから」
ネネは意思を振りほどく。
「おとといきやがれ!」
ネネが叫んだ。
空気が震えた。
ネネは、意思の嘲り笑いに勝った。
ネネは目を開いた。
そこは八重桜色の朝焼けの海。
一歩も変わっていない。
器屋もそこにいるし、
肩にはドライブもいる。
「通り魔ですな」
器屋が告げる。
「わからないけど、そうなの?」
ネネが言うと、器屋はうなずいた。
「心一つで退ける様は、珍しいことです」
「こころひとつ?」
「鋏師ならば鋏で断ち、器屋ならば器を使う」
「うん」
「あなたは心だけで退けた」
「だってそれしかないよ」
「強い力です」
ネネは当惑した。
ちっぽけのネネにそんな力があるなんて。
ネネは自分を思う。
野暮でみんな大嫌いなネネ。
自分には何もないと思っているネネ。
勉強も出来るわけでなし、
絵が描けるわけでなし。
そのネネが、心だけで通り魔を退けたという。
通り魔は、ネネも痕跡だけ見たことがある。
神社から下ってくるときの、えぐれた道とか。
そんな現象を退けたという。
「最近は人の心に住み着く通り魔がいると聞きます」
器屋がよく通る声で語る。
「人の心に入り込み、あちこちに通り魔の現象をばら撒くと聞きます」
ネネは思い出す。
浅海の町のカンオケバス。
事故として片付けられるのかもしれないけれど、
通り魔が浅海の町に出てきているのだろうか。
「噂ですけれど、通り魔をばら撒いている存在があると聞きます」
「ばら撒く」
「今の通り魔も、それかもしれません」
「器屋さんは大丈夫だったの?」
「私はかわしました。そこの螺子ネズミも」
『はいなのです。大丈夫だったのです』
「そっか、よかった」
ネネはほっとため息をついた。
「それじゃ戻ろうか、ドライブ」
『はいなのです』
ネネは端末に手をかける。
「それじゃ器屋さん、また会えるといいですね」
器屋はうなずいた。
ネネはエンターを押す。
端末から光が現れ、扉の形を作る。
ネネは光の扉に手をかける。
光の感触がするような気がする。
ネネは扉を開けた。