「ネネー」
下のほうから声がする。
ネネは目を開けて身を起こす。
ネネはベッドに突っ伏していた。
渡り靴も履きっぱなしだ。
ネネはぼんやり思い出す。
勇者だ。
朝凪の町の勇者が、ネネの心の奥に来てくれた。
光の扉が交差したのだろう。
ネネは漠然とそんなことを思った。
ということは、勇者もどこかの世界と行き来している?
朝凪の町の生粋じゃないというらしいことは、
レディがなんか言っていた。
浅海の町ではどうだろうか。
「少なくともあの鎧はなぁ」
ガシャンガシャンなる鎧を思い出す。
ぼんやりと、通勤ラッシュに飲み込まれる勇者を思い、
ネネは一人で笑った。
「ドライブ」
ネネが声をかけると、
無駄箱一号の陰から、ちりりんと音がした。
机を見ると、帽子とハンカチが片付けられている。
「隠れてる?」
『はいなのです』
「それじゃ朝ごはん食べてくるね」
『はいなのです』
ネネは渡り靴を手にすると、階下へ降りていった。
「ネネおはよう」
母のミハルが笑顔で声をかける。
「おはよう」
ネネが答えると、ミハルは笑みを深くした。
勝手にうんうんうなずいて、なんだかうれしそうだ。
「今日も一日いい天気かも。なんだか楽しいな」
ミハルがフライパンを手で返す。
卵焼きがきれいに回る。
マモルが新聞を読んでいる。
読みながら、茶をすすっている。
ネネは卵焼きや煮魚の朝ごはんを前にして、
「いただきます」
と、宣言する。
もぐもぐ食べて、味わう。
鰤の煮魚がおいしい。
きれいに焼けた卵がおいしい。
「おいしい」
ネネは心に思うのと同時に、つぶやいた。
言ってから、しまったと思った。
いつものネネなら言わないことだ!と。
ネネはつとめて平静を装う。
ミハルは、びっくりした顔をしていた。
まずったとか、言葉が戻ってくればとか、
出来ないことをネネは思う。
「ありがとう、ネネ」
ミハルの目が赤い。
泣き出しそうだ。
「うれしい」
ミハルが目をぬぐう。
マモルが新聞をたたむと、ミハルの肩をぽんぽんとたたいた。
「まぁ、いいじゃないか」
「なんか、心から言われたみたいで、すごくうれしい感じがしたのよ」
マモルがミハルの肩をまた叩く。
「ネネがびっくりしているよ」
ミハルは気がついて、目をぬぐう。
「ごめんね、ネネ」
「んーん」
ネネは首を横に振る。
「今度からおいしかったらそう言うよ」
「そう?うん、そうしてくれると、うれしい」
「うん、今まで言わなくてごめんね」
「よし、今夜もがんばって作っちゃうぞ」
ミハルは一人で気合を入れたらしい。
食器を洗いにシンクに向かう際に、鼻歌を歌っていた。
マモルが微笑む。
ネネも微笑んだ。
一通り食べて後片付け。
台所に見慣れないものを見つけた。
蜂蜜だ。
「はちみつ?」
ネネは手に取ってみる。
小分けされた蜂蜜がいっぱい入っている。
「最近ネネが角砂糖食べるようだから、蜂蜜もいいかなと思って」
「あー、はい」
「頭の回転には糖分がいいそうよ」
ネネは自分じゃないんだけどなぁと思う。
それでもドライブが気に入ったら面白そうだと思い、
「帰ってきてからもらうよ」
と、食器を洗う母に声をかけた。
自室に戻って鞄をひったくるようにして降りて来る。
渡り靴を履いて、かかとを鳴らす。
「いってきます」
ぼそっと。
でも、いつもよりちょっと明るいかもしれない。
線を辿るしかできない自分だと思っていたけど、
母に喜んでもらえることが出来るじゃないかと思う。
ネネも料理を作ったら、おいしいといって欲しい。
魔法の言葉だ。
挨拶もおいしいも、心を通じ合わせる魔法の言葉だ。
ネネはなんとなく感謝を感じる。
幼い頃からしつけてくれた両親にも、
見守ってくれている周りの大人にも、
そういう魔法を教え込まれたことに感謝する。
「いってきます」
ネネは玄関のドアを開いた。