「もしもし?」
翔太がしびれを切らしたのか(でも声は穏やかに)催促する。
「あ、ごめんなさい。明日お話しできるのを楽しみにしています」
丁寧に応じて電話が切れるのを待った。その後、芙美子に連絡をいれる。
「そう。何の話をするつもり?」
素っ気ない声で芙美子は問いただす。私は迂闊にも次の手を考えていなかった。悔しさがこみ上げる。
「話……というより、私自身への関心をもっと強くしなければ」
そう答えると、芙美子は軽蔑したように鼻を鳴らした。
「随分悠長ね。これまであんなにてきぱきと仕事をしてきたあなたとは思えない」
「だって、大きなターゲットだもの」
「そうかしら」
切って捨てるような芙美子の語調。
「あなた、あいつを憎めていないんじゃないの」
ぎくりとした。確かにそうだ。赤根眞理子は憎くても、あの男は私にまだ何もしていないのだ。
「さっさと寝ちゃいなさい」
「え」
「あんたにとってはお手の物のはずでしょ」
芙美子は分かっているのだろうか。そう簡単にいかないから手こずっているというのに。
「あいつにはレイプ犯の血が流れてるの。大丈夫よ。その気にさせるくらい」
乾いた声音で、しかし重苦しい圧力を込めて芙美子が言う。私はあらためて翔太の顔を思い浮かべた。顔立ちは母の眞理子に似ている。けれど、父親の血は内部にあるはずだ。芙美子の憎んで止まない……。
私と芙美子はこの件に関してまさに利害を一にするのだとあらためて心に刻んだ。どんなに私が芙美子を嫌いでも、芙美子が私を蔑んでいても、私たちはあの夫婦への憎しみという点で共同できるのだ。
あとは私次第か。ごくりと咽喉が鳴った。
明日の3限のあとが、大きな勝負どころになる。
私は今日はいつものお嬢様のようなスタイルではなく、襟ぐりの開いた少しセクシーに見えるトップスと短めのスカート。ありがちな気もしたが、アピールすべきところはアピールした方がいい。色も紅系で決めた。大粒のパールのネックレスをして、首筋の細さを際立たせる。
ところが、3限が終わり待ち合わせの場所に急ぐと、私はまるで予期していなかった景色を見た。
芙美子だ。
芙美子であって芙美子でない。そこには、冴えない、あか抜けない芙美子の姿はなかった。そうとうにメイクを凝って、貧弱な体を大人びたネイビーのワンピースに包んでごまかす。小粒のパールのネックレスは、私のものとは違って知性さえ感じさせた。
私は戸惑いを上手に押し隠して翔太に近づく。
「赤根さん、お待たせしちゃって。あら、お知り合いですか」
わざとらしい驚きを見せて芙美子をちらりと見やる。
「ああ、さっき道を聞かれたんだ。説明していたところ。彼女、文学部の院に入った人なんだそうだ。まだこの大学に慣れなくて、講義教室を探していたそうだよ。ほら、院は別の棟で授業をするでしょ。滅多に本キャンパスには来ないそうだから」
「そうなの」
無関心を装いながら、芙美子の表情を見る。芙美子はある種ふてぶてしい笑みをみせていた。
「ありがとうございます。大体の道は分かりましたから、一人で行きます」
「大丈夫ですか。何なら一緒に案内しますけど」
「いいえ、大丈夫です」
芙美子の化け方に唖然としている私をよそに、芙美子はすたすたと歩きはじめた。それを見送ってから翔太は、今度は気安い笑みを私に向けた。
「ごめん、日野さん、待たせちゃって」
それから、並木の下の木製のベンチを指して、
「あそこで話そうか」
そう声をかけてきた。
私の襟ぐりの大きく開いたトップスの中は、翔太には気がかりではないらしい。私は軽く屈辱を覚えた。
翔太はもっと別のことで昂奮している。
「先日はありがとう。それでね、今日は君にお願いがあるんだ」
「お願い?」
「僕の家は修道院で、子供たちを預かっているといったでしょう。僕は彼らになるべく良くしてあげたくて。今度修道院のパーティをしたいと思ってる。パーティというと大げさだけど、まあ、イベント」
嫌な気分が湧くのを私は必死で抑えた。
「体験格差って言葉があるでしょう。生まれ育ちで体験に大きな格差が生まれてしまう。今の社会の仕組みではどうしてもそうなってしまう。でも僕は少しでも……少なくともうちの修道院にいる子供たちには、そういう思いをさせたくはない。わずかでも力になりたいんだ」
私はこみ上げる吐き気を必死に食い止めた。
「この間はシェイクスピアを楽しんだよね。シェイクスピアは子供の時に体験してもすごくいいものだと思うんだ。今は小さい子は子供向けのものでも、大人になってきちんとした翻訳を読むようになるかもしれない。原文で読むかもしれない。朗読か劇を見せてあげたくて。それから、複製だけど、この間見た絵を見せて上げるとか。僕は文学部だから分かるけど、子供の頃に文学に触れることは子供の心を豊かにする。夢が生まれるかもしれないし、将来の道を選択する一助になるかもしれない」
この男は、何も分かってはいない。
すぐ近くで母親が行っていた虐待のことを知らなかったばかりか、あの施設の子供たちに選択などはありえないということも。
全身がうずくような不快さを私は必死にこらえながら、
「いい考えね」
と相づちを打った。そしてその後の彼の言葉にしまった、と我に返った。
「君に手伝って欲しい。君が朗読をするのでもよいし、他のやり方でもいい。君はきっと子供たちに好かれる。ぜひ、協力してほしいんだ」