「それは……いつ?」
私は断る言葉を直ちには思いつかなかった。
「来月の20日にしようと思ってる。土曜日だよ。君も授業は入れていないでしょ」
「そうね。ああ、でも予定が入るかも。ちょっと」
「君が無理なら日にちを変える。なあに、子供たちは逃げないから」
翔太は何げなく言ったつもりだろうが、私はその最後の言葉に再び怒りを覚えた。けれど、そのままに言うわけにはいかない。
「私、実は子供さんが苦手なの」
声を落として私は言った。
翔太は心底驚いた声で、
「君が? どうして。そんなふうには見えないけれど。優しくて……そう、慈愛のある人に見える」
「慈愛ですって?」
私の声は尖った。
「私はね、子供が本当に好きでないの。うるさいし、汚いし、……もし許されるのなら、子供の手に剣山を突き刺すことだってすすんでやるでしょう。喜びを感じながら」
声を荒げた私を翔太はじっと無表情に見た。
「どうしたの。いつもの君らしくない。僕は……信じないよ、そんな話」
「あなたに私の何が分かるというの」
翔太は私の方に一歩踏み出した。そっと手を差し出し、途中で止めた。肩を抱こうとしたらしい。
「ごめん」
翔太は俯いた。
「え」
「日野さんをつい、抱きしめたくなってしまった」
その言葉を聞いても、私には暗い喜びは生まれなかった。
「そんな」
「ごめん」
「いえ、ふつうは嫌いになるでしょう。子供嫌いの女なんて」
「人にはそれぞれ事情があるから」
「……」
あなたに何が分かる?──喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。ともかく、今の私は冷静さを欠いている。このまま翔太と一緒にいるのは得策ではない。
「ごめんなさい。今日は少し感情的になってしまったわね。図書館にでも行って落ち着こうと思うの」
「今のが君の感情なら、僕はできるだけ受け止めたい」
翔太は真剣な目を見せた。初めて見る表情に息をのんだ。
「日野さん、僕は君を大事に思っている。いや、はっきり言う。好きなんだ。本当に好きになってしまった。ごめん、君はとまどうかもしれないけれど、真剣に考えて欲しい。こんな僕で良ければ、……つき合って欲しいとまでは言わない。黙って消えることだけはしないで欲しいんだ」
「……消える?」
「どこか日野さんにはそういう雰囲気がある」
そこで声を落として、
「あのオフィーリアをずっと見つめていた君は、まるではかなかった」
さすがお坊ちゃまだ。歯の浮くような言葉を平気で口にする。そう思いながらも、憎い相手のはずなのに、身の毛のよだつような嫌悪は少しも湧かなかった。とにかく、今はこの場を離れること。本能がそう私に告げた。
「ごめんなさい。とにかく、今は私、一人になりたいの。本当に。あなたのこと、私信じてるから、今は一人にさせて」
かろうじてそう言うと、翔太は落胆したようだが、思い直したようにこう言った。
「分かったよ。好きな人に負担はかけたくない。本当は僕が力になりたいんだけど、まだその時期ではないんだね」
私は頷きもせず、ただ横を向いた。
「でも、僕の気持ちは本当だから。それだけは覚えておいて。君の負担になろうとは思わないけれど、でも力になれることがあったら、遠慮なく言ってほしいから」
今度は私は軽くうなずいた。
翔太から離れて、図書館のある北門の方に歩きつつ、私は荒い息をしていた。一人になりたい気持ちは本当だった。これほど真剣に人に扱われたことはない。私はもちろん、翔太を好きにはならない。けれど、そうだ、芙美子の言うように憎み切れてはいないのだ。嫌いな要素を見いだせないのだ。それがどうしようもなく情けなく悔しくて、できれば声に出して泣いてしまいたい気分だった。
私は憎しみと悔しさの涙しか流したことはない。
それは今も同じはずだった。
自分に悔しさを持っている。
いつも心を殺しているけれど、はしなくもむき出しになった自分の弱いところが悔しい。私はこんな人間ではない。もっと冷徹にことを行えるはずだった。人を殺めるのも平気だ。許せない俗物の男どもを殺すなど、何の痛みもない。私の身体に引き寄せられるような男ならば。
赤根眞理子は別の意味で、いつか復讐してやろうと考えていた。うかつにも芙美子に聞くまで、赤根眞理子の子が身近にいることには気づいてもいなかったが。
私は暗い情念を心の底に澱のように溜めているが、表面上はいつも冷静だった。だから失敗もミスもなくことを成し遂げた。
そう考えると、あの縣教授をやり損ねたあたりから、何かが狂いだした。もっと正確に言えば、認めたくはないことだったが、芙美子が私の前に登場して以来、私は調子をおかしくしている。芙美子こそ、私の疫病神なのかもしれない。
『レイプ』『死ね』と書かれた彼女の色紙。芙美子の情念は、私よりもさらにさらに深いのかもしれない。なぜなら、私の知らない「家族の地獄」を、彼女は身をもって経験してきているからだ。「家族」というものは、私には未知だ。それが私の最大の弱点なのかもしれない。