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第26話

「それは……いつ?」

 私は断る言葉を直ちには思いつかなかった。

「来月の20日にしようと思ってる。土曜日だよ。君も授業は入れていないでしょ」

「そうね。ああ、でも予定が入るかも。ちょっと」

「君が無理なら日にちを変える。なあに、子供たちは逃げないから」

 翔太は何げなく言ったつもりだろうが、私はその最後の言葉に再び怒りを覚えた。けれど、そのままに言うわけにはいかない。

「私、実は子供さんが苦手なの」

 声を落として私は言った。

 翔太は心底驚いた声で、

「君が? どうして。そんなふうには見えないけれど。優しくて……そう、慈愛のある人に見える」

「慈愛ですって?」

 私の声は尖った。

「私はね、子供が本当に好きでないの。うるさいし、汚いし、……もし許されるのなら、子供の手に剣山を突き刺すことだってすすんでやるでしょう。喜びを感じながら」

 声を荒げた私を翔太はじっと無表情に見た。

「どうしたの。いつもの君らしくない。僕は……信じないよ、そんな話」

「あなたに私の何が分かるというの」

 翔太は私の方に一歩踏み出した。そっと手を差し出し、途中で止めた。肩を抱こうとしたらしい。

「ごめん」

 翔太は俯いた。

「え」

「日野さんをつい、抱きしめたくなってしまった」

 その言葉を聞いても、私には暗い喜びは生まれなかった。

「そんな」

「ごめん」

「いえ、ふつうは嫌いになるでしょう。子供嫌いの女なんて」

「人にはそれぞれ事情があるから」

「……」

 あなたに何が分かる?──喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。ともかく、今の私は冷静さを欠いている。このまま翔太と一緒にいるのは得策ではない。

「ごめんなさい。今日は少し感情的になってしまったわね。図書館にでも行って落ち着こうと思うの」

「今のが君の感情なら、僕はできるだけ受け止めたい」

 翔太は真剣な目を見せた。初めて見る表情に息をのんだ。

「日野さん、僕は君を大事に思っている。いや、はっきり言う。好きなんだ。本当に好きになってしまった。ごめん、君はとまどうかもしれないけれど、真剣に考えて欲しい。こんな僕で良ければ、……つき合って欲しいとまでは言わない。黙って消えることだけはしないで欲しいんだ」

「……消える?」

「どこか日野さんにはそういう雰囲気がある」

 そこで声を落として、

「あのオフィーリアをずっと見つめていた君は、まるではかなかった」

 さすがお坊ちゃまだ。歯の浮くような言葉を平気で口にする。そう思いながらも、憎い相手のはずなのに、身の毛のよだつような嫌悪は少しも湧かなかった。とにかく、今はこの場を離れること。本能がそう私に告げた。

「ごめんなさい。とにかく、今は私、一人になりたいの。本当に。あなたのこと、私信じてるから、今は一人にさせて」

 かろうじてそう言うと、翔太は落胆したようだが、思い直したようにこう言った。

「分かったよ。好きな人に負担はかけたくない。本当は僕が力になりたいんだけど、まだその時期ではないんだね」

 私は頷きもせず、ただ横を向いた。

「でも、僕の気持ちは本当だから。それだけは覚えておいて。君の負担になろうとは思わないけれど、でも力になれることがあったら、遠慮なく言ってほしいから」

 今度は私は軽くうなずいた。

 翔太から離れて、図書館のある北門の方に歩きつつ、私は荒い息をしていた。一人になりたい気持ちは本当だった。これほど真剣に人に扱われたことはない。私はもちろん、翔太を好きにはならない。けれど、そうだ、芙美子の言うように憎み切れてはいないのだ。嫌いな要素を見いだせないのだ。それがどうしようもなく情けなく悔しくて、できれば声に出して泣いてしまいたい気分だった。

 私は憎しみと悔しさの涙しか流したことはない。

 それは今も同じはずだった。

 自分に悔しさを持っている。

 いつも心を殺しているけれど、はしなくもむき出しになった自分の弱いところが悔しい。私はこんな人間ではない。もっと冷徹にことを行えるはずだった。人を殺めるのも平気だ。許せない俗物の男どもを殺すなど、何の痛みもない。私の身体に引き寄せられるような男ならば。

 赤根眞理子は別の意味で、いつか復讐してやろうと考えていた。うかつにも芙美子に聞くまで、赤根眞理子の子が身近にいることには気づいてもいなかったが。

 私は暗い情念を心の底に澱のように溜めているが、表面上はいつも冷静だった。だから失敗もミスもなくことを成し遂げた。

 そう考えると、あの縣教授をやり損ねたあたりから、何かが狂いだした。もっと正確に言えば、認めたくはないことだったが、芙美子が私の前に登場して以来、私は調子をおかしくしている。芙美子こそ、私の疫病神なのかもしれない。

 『レイプ』『死ね』と書かれた彼女の色紙。芙美子の情念は、私よりもさらにさらに深いのかもしれない。なぜなら、私の知らない「家族の地獄」を、彼女は身をもって経験してきているからだ。「家族」というものは、私には未知だ。それが私の最大の弱点なのかもしれない。


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