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第27話

 翔太とも別れ、私は実際に図書館に行った。少し気持ちを落ち着け整理したいと思った。図書館の静かな空間はちょうどいい。私はあの場所が存外好きだった。カードを通して館内の一般の書架のある場所に入る。静かで落ち着いて、そして学ぶにもお金が足りなかった私の知識を補ってくれる書物がたくさんある。そういう場所に出入りできるありがたさは身に沁みるほどに私は知っていた。

 そして今は、思いがけず高ぶった自分の感情を鎮める。

 それにしても──。

 あの芙美子の振る舞いはいったい何だったのだろう。院生に化けてこの学内に出入りして、何を企んでいるのだろう。彼女は正面から堂々と彼に接触してしまった。もう、お互いに軽く見知った関係となったわけだ。赤根翔太は彼女が自分の実の妹とは思いもしないだろう。実際、見かけから気づくのは無理だ。翔太は眞理子に外見がよく似ている。芙美子は父ではなく母に似ている。おそらく名乗られない限り、翔太は気づかない。

 芙美子の考えていること、その狙いが分からないから、私は苛立ち、悔しいことだが恐れている。

 想像するのだ。芙美子の心の奥底を。

 「家族のいる地獄」。

 私には無縁であった地獄。彼女が曝されてきた幼いころからの侮蔑とイジメ。そういえば、芙美子の母は今どうしているのだろう。芙美子と一緒に暮らしているのか。別々でもうつながりもないのか。

 芙美子の母を私は見たことがない。それを調べてみる必要がありはすまいか。

 私は遠い記憶を呼び起こす。芙美子の家は、どこにあっただろうか。遠い遠い、暗い暗い子供の頃の記憶。私は卒業アルバムなどというものを捨ててしまっていたことに臍を噛んだ。必要を感じないから、卒業式で受け取ってすぐ、公園の大きなダストボックスに投げ入れた。

 仕方がない。私は自分と芙美子が通っていた中学校に行ってみることにした。今時、個人情報を簡単に教えてもらえるとは思えない。けれど、当たってみる価値はあるように思う。

 図書館を出ると、私はタクシーを拾って少し離れた駅まで走ってもらった。近くには芙美子がいる。それでなくても、私の知らないところで私を監視しているような芙美子には用心する必要がある。とりわけ芙美子の過去と今を探ろうとしている今は。

 私はメトロの駅に着くと、すぐに電車に乗り、また乗り換えた。私たちが生まれ育った都内の東の外れの方角へと向かう。下町風情が残ると言われるあの街は、私や芙美子にとっては生き地獄の息苦しいだけの街だった。私は施設を出て以来、ほとんど近づいたことはない。

 東京スカイツリーが近くに見えた。屹立する不格好なタワー。見ていると急に灯りがついた。ちょうどライトアップの点灯時間だったようだ。背景の空は均一の鉛色に曇っている。ぼんやりと霞むように光るタワーは走る電車の車窓からはすぐに消えた。私は再び前を向く。

 記憶している中学校の最寄りの駅まで来て、実に久しぶりにホームに降りた。さびれて薄汚い駅だ。かかっている店の看板は日に焼けて色が薄れ、汚らしい。

 しかし、この先には、それなりの住宅街が広がっているはずだった。その中に中学校はある。

 記憶は鮮明だ。駅の出口の方向も覚えている。忘れたい日々だったというのに、こういう記憶はしっかりとしているものらしい。

 駅前のロータリーを横断歩道で渡り切り、大通りの歩道をまっすぐに歩いた。しばらく行くと、見慣れた制服の生徒たちが男女ともに見られるようになっていく。私は修道院への寄付のお下がりであるブレザーの制服を着ていた。駅や団地に向かう同じ制服の彼らとすれ違いながら中学校に向かう角を曲がった。

 すすけた記憶しかなかった校舎が、夕陽で輝いている。それを見て秘かに思う。私は永遠に、こんな日の当たる場所からは去ったのだ、と。

 そう思うと昼の翔太の言葉がよみがえり、その何も知らないお坊ちゃんぶりに苦笑がもれる。私のことが好きだって? どの口がそれを言うのだろう。けれど同時に戸惑いも湧き上がってくる。私に対し「好きだ」とまともに告げたのは、赤根翔太が初めてだった。むろん私の心がそれに動じることは決してない。そうであっても、どうしても赤根眞理子に対するようには憎み切ることができない。今私は、そういう煮え切らない自分を断ち切るためにも中学校に来ているのだと思い知る。職員室は棟と棟の間の島のような建物の中にあったはず。門をくぐって入ろうとすると、守衛が声をかけてきた。私は全く臆することなく、この学校の卒業生であること、用件があり、訪問していることを告げた。守衛の老人はすぐに引き下がり、私は職員室に向かう。まわりの男子学生が下卑た眼で遠慮なく私を見ていく。立ち止まって無礼なほどにのぞき込む生徒もいる。少しも変わっていない。

「虫けらども」

 きっと彼らの遺伝子に、下卑た根性がインプットされているに違いない。私は、決してそれを許しはしない。そのために私は生きているのだから。

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